教皇「言動不一致はキリスト者の信頼性を失わせる」
教皇フランシスコは、11月5日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを行われた。
祈りの前の説教で、教皇は、同日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の、イエスが律法学者とファリサイ派の人々を非難するエピソード(マタイ23,1-12)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音は、イエスが律法学者とファリサイ派の人々について言った言葉を伝えている (参照 マタイ23,1-12)。これらの人々は民衆の宗教的指導者であった。イエスは、こうした権威ある人々について、彼らは「言うだけで、実行しない」、「そのすることは、すべて人に見せるためである」と、非常に厳しい言葉で語っている。
ここで彼らの、「言うこととやることが違う」、「内的なことより外見を優先させる」という態度について考えてみよう。
言うことと、行動との間にある距離について考えよう。イスラエルのこれらの師たちは、神の言葉を人々に教え、神殿の権威として尊敬を集めようとしていた。しかし、イエスは、言動の一致しない彼らの二面性を批判する。イエスのこの言葉は、特にイザヤ預言者の「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29,13)という言葉を思い出させる。わたしたちが注意深く見張るべきもの、それは表裏ある心である。二面性ある心は、人間として、キリスト者としての証しと信頼性を失わせる。
わたしたちは皆、それぞれの弱さを持ち、言葉と行いの間には一定の距離がある。また、一本の足を二つの靴に入れるが如く、問題を起こさないように、心に二面性を持つことがある。それは特に生活や、社会、教会などの中で責任ある役割を負うように招かれた時に起きがちだ。こうした二面性に陥らないよう注意しよう。司祭、司牧担当者、政治家、教師、両親たちには、このルールは常に大切である。自分が他者に言うことは、まず自分が実行すべきだ。権威ある師となるためには、第一に自らが信頼できる証しとなるべきだ。
言動一致しない生き方は、「内的なことより外見を優先させる」ことにつながる。事実、言うことと行いが一致しない律法学者とファリサイ派の人々は、外面的な評価を救うために、その言動不一致を隠すことに心を砕くようになる。自分たちの信頼性を失わないように、体面にこだわり、正しい人を演じる。こうして、いわば化粧で、顔や生活や心を覆い隠すようになる。彼らは真理を生きるということができない。わたしたちもしばしば、彼らと同じごまかしの誘惑に陥りがちである。
イエスのこれらの忠告を受け入れつつ、わたしたちも自問しよう。自分が他人に説くことを、自ら実行するようにしているだろうか。それとも二重の生き方をしているのか。外側だけの完璧さに気を遣っていないだろうか。誠実な心のうちに内的生活を大切にしているだろうか。
わたしたちが福音の信頼できる証し人となれるよう、神の御旨に完全に謙遜に従って生きた方、聖母マリアの助けを祈ろう。