「恐れと闇の中で、主に祈り、主を受け入れる」教皇、日曜正午の集いで
教皇フランシスコは、8月13日、バチカンで日曜正午の祈りの集いを持たれた。
年間第19主日、教皇は祈りの前の説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の、イエスが湖の上を歩くエピソード(マタイ14,22-33)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音は、イエスの特別な奇跡を語っている。イエスは、夜、湖を舟で横断していた弟子たちに会うために、ガリラヤ湖の水の上を歩いて行かれた(参照 マタイ14,22-33)。なぜイエスはこのようなことをされたのだろうか。逆風にはばまれた弟子たちを救うために急ぐ必要があったのだろうか。それとも、福音書に「弟子たちを強いて舟に乗せ」(参照 同14,22)とあるように、夕方、彼らを船出させたのは、イエスの計画するところだったのか。彼らに偉大さを見せつけたかったのか。そうではないならば、なぜイエスはこうしたのだろうか。
水の上を歩くことの裏には、わたしたちにはすぐに理解できないメッセージがある。かの時代、水が大きく広がる場所には悪霊の力が潜むと考えられていた。特に嵐で荒れた深海は混沌の象徴であり、地獄の闇を想像させるものであった。
弟子たちは闇の中、湖の上にいた。彼らは沈み、水に吸い込まれることを恐れていた。そこへイエスが水の上を歩いて、すなわち悪の力を踏んで現れた。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(同14,27)と話しかけられた。
それは、わたしたちを恐れさせ太刀打ちできない悪の力が、イエスの存在によって小さくなったということを意味する。イエスは水の上を歩きながら「恐れることはない。わたしはあなたがたの敵を踏みつけている」と言われる。ただ、敵とは人や人物を指すのではない。それは死、罪、悪魔のことである。これらの敵をイエスはわたしたちのために踏みつけられる。
キリストは今日、わたしたち一人ひとりに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と再び言われる。では、恐れや闇の中で自分を見失っている時、どうするべきだろうか。その方法は2つある。福音の中の弟子たちのように、イエスに「祈り願い」、イエスを「受け入れる」ことである。
「主に祈り願うこと」。ペトロは、水の上を少し歩きイエスの方に進んだが、途中で怖くなり沈みかけた。ペトロは叫んだ。「主よ、助けてください」。ここには、主がわたしたちを助け、わたしたちの悪と恐れを打ち負かしてくださるとの信頼が表れている。わたしたちも、特に嵐の時、「主よ、助けてください」と呼び求めよう。
「主を受け入れること」。その後、弟子たちは主を舟の中に迎え入れた。イエスとペトロが舟に乗り込むと「風は静まった」(同14,32)と福音は語る。主は、人生という舟、また同様に教会という舟が、逆風や荒波に脅かされているのをご存じである。しかし、主はわたしたちを舟を操る苦労から守ってくれるのではなく、むしろ、福音が強調するように、わたしたちに岸を離れるようにと促される。つまり、わたしたちが困難に立ち向かい、それを救いの場所、主との出会いの機会にするように招かれる。事実、主はわたしたちが闇の中にいる時に会いに来られ、わたしたちがご自身を迎え入れることを望まれる。
ここで自問しよう。わたしたちが恐れを抱いている時、自分の力だけでやっていこうとするのか、それとも主を呼び求め、主を人生の舟の中に迎え入れるのか。
イエスの御母、海の星、マリアよ、闇の中を行く時、イエスの光を探せるようお助けください。