教皇「わたしたちは皆、イエスの預言者、証し人」
教皇フランシスコは、7月2日(日)、お告げの祈りを信者と共に唱えられた。
7月に入り、教皇は例年のとおり、毎週水曜日の一般謁見、および随時行う特別謁見共に、一ヶ月の休止期間を置かれる。一方で、毎日曜日正午のお告げの祈りの集いは、7月中も定期的に行われる。
典礼暦の年間第13主日、教皇は集いの説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書の一節中(マタイ10,37-42)の「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」(参照 同10,41)というイエスの言葉を取り上げつつ、預言者とは誰かを考えられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音の中でイエスは、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」(参照 同10,41)と言われる。ところで、イエスの言われる預言者とは何だろうか。未来を言い当てる一種の魔術師のように想像する人もいるだろう。別の人たちは、イエスの到来を前もって知らせるために存在した過去の人物を思い浮かべるかもしれない。それでも、今日、イエスご自身が預言者を受け入れる必要について話しておられる。預言者はまだいるのなら、それはどういう人だろうか。
預言者、それはわたしたち自身である。実際、洗礼によって、わたしたちはキリストの「預言職の賜物と使命」にあずかる(参照 カトリック教会のカテキズム 1268)。預言者は、洗礼の力において、聖霊の働きのもとに、現在を読み取り、神のご計画を理解し、それに応えるよう、他者を助ける人である。別の言い方をすれば、イエスを指し示し、イエスを証しし、イエスの教えに従い今日を生き、明日を築けるよう、人々を助ける者である。
すなわち、わたしたちは皆、福音の力を日常生活、家庭、社会で輝かせるための、イエスの預言者、証し人なのである(参照 教会憲章35)。ではここで自問しよう。洗礼によって預言者とされた自分は、イエスを証しする者として話し、生きているだろうか。キリストの光を誰かの人生にわずかでももたらしているだろうか。
福音の中で主は「預言者を受け入れる」ようにとも命じている。それぞれの立場、召命、生きる場所に従って神のメッセージをもたらす者として、互いに受け入れ合うことが大切である。聖霊は聖なる神の民に預言職の賜物を分け与えた。それゆえに、すべての人に耳を傾けることは良いことである。こうして、互いに真理を求め、神と兄弟たちに耳を傾ける環境を築き、わたしたちに気に入る意見を言う人だけでなく、自分たちと意見を異にする人も受け入れられ、その賜物ゆえに尊重されていると感じることができるようになる。
相手を理解したいという真摯な望みのうちに耳を傾け合うならば、いったいどれだけの紛争を避けることができただろうか。最後にもう一度自問しよう。わたしは兄弟姉妹たちを預言職の賜物として受け入れているだろうか。彼らから学びたいという気持ちをもって、尊重のもとに耳を傾けているだろうか。なぜならば、われわれ皆が他者から学ぶ必要を持っているからである。
預言者たちの女王、マリアよ、聖霊が他者の中に蒔いた善を見つめ、受け入れることができるよう、わたしたちをお助けください。