三位一体:教皇「愛である神の名のもとに交わりを作り出そう」
教皇フランシスコは、6月4日(日)、お告げの祈りを信者と共に唱えられた。
三位一体の祭日、教皇は集いの説教で、イエスがニコデモとの対話において「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と話される箇所(ヨハネ3,16-18)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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三位一体の祭日、今日の福音朗読は、イエスとニコデモの対話からとられている(ヨハネ3,16-18)。
最高法院の議員であったニコデモは、神の神秘の探究に熱心であった。彼はイエスの中に「神のもとから来た教師」を認め、イエスと話すために隠れて会いに行った。イエスはニコデモに耳を傾け、彼が神を求める人であることがわかった。イエスは最初に、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言って彼を驚かせながらも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の神秘の中心を啓示された。ここでイエスは「子」として、「父」とその無限の愛について語っている。
「父」と「子」、この家族的なイメージは、わたしたちの神に対する印象を温かいものにする。「神」という言葉が威厳と距離を感じさせるのに対し、「父」と「子」という言葉は家を連想させる。わたしたちは神を、一つのテーブルに一致し、いのちを分かち合う家族のイメージを介して考えることもできるだろう。実際、その食卓とは、同時に祭壇であり、イコンにも描かれているそのイメージは三位一体、交わりの神を表している。
それはイメージだけではなく、現実である。それが現実であるのは、御父がイエスを通してわたしたちの心に送ってくださった聖霊(参照 ガラテヤ4,6)が、寄り添う、あわれみ深い、優しい神の現存をわたしたちに味わわせてくださるからである。イエスがニコデモにそうされたように、聖霊はわたしたちを新たに生まれることの神秘へと導き、御父の心を啓示し、神ご自身のいのちに参与させてくださる。
わたしたちは、いわば、神の愛を分かち合うために、神と一緒に食卓につくように招かれているとも言える。これは毎回ミサ聖祭が行われる祭壇において起きていることなのである。そこでイエスは御父にご自身を捧げ、わたしたちのためにご自身を与えられる。わたしたちの神は、イエスが啓示されたように、愛の交わりである。
わたしたちはこのことを、子どもの時から学んだ単純な動作、十字のしるしをすることによって思い出すことができる。十字のしるしをしながら、神がわれわれのためにいのちを差し出すまでにわたしたちを愛されたことを思い出す。そして、そのしるしを自分自身の上に繰り返すことで、それはわたしたちを決して見捨てない抱擁のように、神の愛でわたしたちを上から下まで、左から右まで完全に包むだろう。それと同時に、わたしたちは愛である神の名のもとに交わりを作り出しながら、その愛を証しすることに努めよう。
ここで自問しよう。わたしたちは「愛である神」を証ししているだろうか。それとも神は愛であるということは、単なる概念になってしまっていないだろうか。神は愛であるならば、わたしたちの共同体はそれを証しし、愛することを知っているだろうか。それは家族、家となっているだろうか。
父と子と聖霊である神の栄光のもとに、家族的に愛し合う家のように教会を体験できるよう、聖母の助けを願いましょう。