待降節:教皇「目覚めて待ち、神の訪れに気づけるように」
教皇フランシスコは、11月27日(日)、「お告げの祈り」をバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。
この日、カトリック教会の暦は、降誕祭の準備期間「待降節」に入ると共に、新しい典礼暦年をスタートさせた。
集いの説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の、イエスがノアの箱舟の時代に触れながら「目を覚ましていなさい」と説く場面(マタイ24,37-44)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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待降節への入り口である今日の典礼の福音で、わたしたちは素晴らしい約束に耳を傾ける。「主が帰って来られる」(マタイ24,42)。神の訪れ、それはわたしたちの希望の礎、われわれの人生の最も困難で辛い時をも支えてくれるものである。主は常に来られ、わたしたちに寄り添い、時の終わりにわたしたちをその御腕の中に迎えるために帰って来られる。
では、主はどのように来られるのだろうか。そして、わたしたちはどのようにそれに気づくことができるのだろうか。
主はどのように来られるのか。主はわたしたちと歩みを共にされると知ってはいても、わたしたちは多くのことに気を散らしすぎて、頭でそれを理解しているだけではないだろうか。あるいは、主が何かのしるしをもって驚くべき方法でやって来られると想像しているのだろうか。
しかし、イエスは、その日その時は「ノアの時と同じ」(マタイ24,37)と言われる。「ノアの時」、人は何をしていただろうか。「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」(同24,38)、すなわちいつもと変わらない日常をおくっていたのである。
神は最も普通の日常、毎日の生活の中に隠れておられるということを忘れないようにしよう。神は日々の仕事の中に、偶然の出会いの中に、時には助けを必要とする人の中や、退屈な灰色の日々の中にもおられ、わたしたちを呼び、話しかけ、わたしたちがどのように行動すべきか促される。
では、わたしたちはどのように主に気づき、主を受け入れることができるのだろうか。そのためには、目覚め、気をつけ、注意していなければならない。イエスは、人の子は思いがけない時に来る、と注意を促しておられる。実際、イエスが言われるように、ノアの時、人々は食べたり飲んだりしていて、洪水が襲うまで「何も気がつかなかった」(同24,39)。
人の子が来る時、「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」とイエスが言われるのはどういう意味だろうか。それは、一人は目覚めて待ち、日常生活の中の神の現存に気づくことができたが、もう一人は、ただその日を暮らすばかりで、何も気づかなかったということである。
この待降節、無気力を振り払い、眠気の中から目を覚そう。意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか、自問しよう。もし、今日、わたしたちが神の訪れに気づかないならば、終わりの時が来ても、準備できていないだろう。だから、目覚めていよう。
ナザレの謙遜で隠れた生活において神の訪れを知り、神をその胎に迎えた方、おとめマリアよ、わたしたちがこの歩みの中で神の訪れに気づくことができるようお助けください。