教皇「他者と共に、他者のために生きるよう招く三位一体の神」
教皇フランシスコは、6月12日(日)、バチカンで「お告げの祈り」の集いを持たれた。
「三位一体」を祝ったこの日曜日、教皇は、ヨハネ福音書中のイエスが聖霊と御父について語る箇所(ヨハネ16,12-15)を観想しつつ、説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日、「三位一体」の祭日、福音の中でイエスは神なる三つのペルソナ(位格)のうちの二つのペルソナ、御父と聖霊について説明されている。
イエスは聖霊について、「その方は、自分から語るのではなく[…]わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネ16,13-14)と言われる。
次いで、イエスは御父について、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(同16,15)と言われた。
ここでわかることは、「聖霊は語られるが、語るのは御自分のことではない、聖霊はイエスを告げ、御父を啓示される」ということ、また、「あらゆるものの源である御父はすべてを持っておられ、そのすべてを御子に与えられる」ということである。
さて、わたしたちを見てみよう。わたしたちが話すこと、持っているものについて考えてみよう。わたしたちが話す時、自分を良く見せるように話し、時には自分自身や、自分がしていることだけを話そうとする。御自分以外の方を告げ語られる聖霊とは何という違いだろうか。また、自分が持っているものに対しわたしたちは何と用心深く、他者とそれを分け合うことは何と難しいことだろうか。
聖三位一体を祝うことは、神学的な行為であるだけでなく、わたしたちの生き方の革命なのである。それぞれのペルソナが他のペルソナのために生きておられる神は、わたしたちに他者と共に、他者のために生きるようにと招いている。三位一体の神を信じるわたしは、生きるために他者を必要とすることを本当に信じているだろうか。他者のために自分を与えることができるだろうか。それを言葉だけでなく行動で示せるだろうか。自問してみよう。
三位一体の神は、言葉より先に、行いで示される。ヨハネ福音記者がしるすように、「神は愛」(1ヨハネ4,16)である。では、愛するとはどういうことだろうか。それは、単に相手を大切に思ったり、相手によくすることではない。それ以前に基礎にあるのは、他者を受け入れ、他者のために心のスペースを割くことである。
三位一体の神は、それぞれのペルソナの名の中に、他のペルソナの存在を表している。たとえば、御父は御子なしではありえない。同様に、御子は御父なしで考えることはできない。そして、聖霊は、御父と御子の霊である。すなわち、三位一体は、他のペルソナの存在なしではありえないことを教えている。
わたしたちは孤立した存在ではなく、神の似姿を生きるためにこの世にいる。それは、開かれ、他者を必要とし、他者を助けることを必要とする生き方である。
では、再び自問しよう。毎日の生活でわたしも三位一体を反映しているだろうか。毎日する十字のしるしは、単なる動作にすぎないのか。それともわたしにとって話すこと、出会うこと、答えること、裁くこと、赦すことに影響を与えているだろうか。
御父の娘にして、御子の母、聖霊の花嫁である聖母が、わたしたちが愛である神の神秘を受け入れ、それを生活の中で証しできるよう、助けてくださいますように。