「イエスを生活の中に迎えよう」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、1月2日(日)、「お告げの祈り」をバチカンの聖ペトロ広場の巡礼者らと共に唱えられた。
元日に続くこの日曜日の正午の集いで、教皇は「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 (ヨハネ1,14)という、福音朗読の一節を取り上げ、次のように説教を行われた。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今日のミサで朗読される福音には、毎日わたしたちが「お告げの祈り」で唱える、主の降誕の意味を表す素晴らしい言葉が記されています。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 (ヨハネ1,14)。
この言葉には、一種のパラドックスが見られます。そこには、相反する二つの現実が同時に存在しているのです。それは、神の「言(ことば)」と「肉」、すなわち人間性です。「言」は、神なる御父の永遠の御言葉であるイエスです。それは、無限で、この世のものが創造されるはるか以前から存在する、永遠の存在です。一方、肉、人間性は、まさしく創造されたわたしたちの存在を表し、はかなく、有限で、死すべき存在です。イエスがこの世に来られる前には、この二つの現実は完全に離れた存在でした。天は地と相いれず、無限は有限と対立し、霊は物質と相反するものでした。
ヨハネの福音書の冒頭部には、もう一つの対比が見られます。それは「光と暗闇」です(参照 1,5)。イエスは、この世の闇に入った神の光です。イエスの中には、一切の闇はありません。今、イエスと共に、光と闇が、聖性と過ちが、恵みと罪が出会うのです。
福音はこの対比によって何を告げたいのでしょうか。それは、神の素晴らしいなさり方です。わたしたちのもろさを前にして、主はたじろぐことはありません。主はその永遠と無限の光の中に留まることなく、人となり、近くに来てくださいます。闇の中に下り、この地上に住まわれます。
では、なぜそうされるのでしょうか。わたしたちが神ご自身から、光から、遠く離れてさまようことを望まれないからです。これが神の御業です。神はわたしたちの間においでになります。たとえ、わたしたちがそれにふさわしくなくても、神をとどめることはできません。たとえ、わたしたちが神を拒絶したとしても、神はわたしたちを探すのに倦むことがありません。わたしたちが神をふさわしく迎える準備が整っていなくても、神はわたしたちの所に来ることを望まれます。
兄弟姉妹の皆さん、わたしたちはいろいろな理由で、自分は神にふさわしくないと思い込み、しばしば神から離れて立っています。そうです。確かにふさわしくはないでしょう。しかし、主の降誕は、神の見方を通して見るようにと勧めます。神は人となることを望まれました。もし、あなたの心が悪に汚れすぎ、荒れていたとしても、自分の殻に閉じこもってはいけません。恐れることはありません。ベトレヘムの馬小屋に思いをはせましょう。イエスはそこに、あの貧しさの中にお生まれになりました。それは、あなたの心を訪れること、みじめな生活を送ることを恐れはしないと、あなたに告げるためです。
福音書の中で使用されている「住まう」という言葉は、運命を共にする、最大の親しさを表す言葉です。神はそれを望まれます。
わたしたちは神のお望みのままにしているでしょうか。言葉ではそう言いながらも、本当にそうしているでしょうか。自分の利益のためだけに生き、福音が、神が、心に入ってこないようにしていないでしょうか。
降誕節にあたり、主をふさわしくお迎えしているでしょうか。プレゼピオの前に留まり、何を思うでしょうか。馬小屋は、イエスがわたしたちの具体的な生活の中にお住まいになることを示しています。そこにあるのは、うまくいかないことや、多くの問題ばかりです。羊飼いたちは苦労して働き、ヘロデ王はベトレヘムの幼子たちを殺そうとしています。この貧しさあふれる現実の中に、イエスはおいでになります。しかし、これらすべての中に、神がおられるのです。わたしたちと共に、この状態の中に住みたいと言われる神がおられるのです。
神は、わたしたちが自身の現状を語ることを待っておられます。馬小屋の前で、わたしたちのすべてを語りましょう。そして、わたしたちの生活に入ってくださるよう、特にわたしたちの最も暗い部分、最も深い場所に来てくださるよう、イエスに願いましょう。恐れることなく、現代の社会生活、教会生活について諸問題を語りましょう。神はわたしたちと共に住むことを愛されるのですから。
わたしたちが主との親しさをますます深めることができるよう、神の母聖マリアがお助けくださいますように。