検索

教皇フランシスコ 2024年2月14日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2024年2月14日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「怠惰との闘いを信仰の忍耐をもって乗り越える」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、2月14日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、2月14日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 この日、教皇は謁見中の「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、「怠惰」をテーマに講話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

**********

 主要な「悪徳」の中でも、あまり語られずに見過ごされているものがある。それは「怠惰」である。悪徳のリストにある「怠惰」は、しばしば「怠ること、怠けること」という意味にとられている。しかし、「怠り」は原因であるより、むしろ結果である。砂漠の教父たちは、その怠りの根底にあるものを「無気力」であるとしている。

 無気力という意味での怠惰は、非常に危険な誘惑である。その犠牲に陥ると、あたかも死の願望に押しつぶされるかのようである。すべてに嫌気がさし、神との関係さえも面倒になる。かつては心を温めていた聖なる行為も、今はすべて無駄に思えてしまう。

 「怠惰」は「白昼の悪魔」とも呼ばれる。それはわたしたちを真昼に捕える。疲れが頂点に達している時、その先の時間は、変化のない、生きることが困難なものに見えてくる。

 実際、無気力に囚われた人にとっては、人生は意味を失い、祈りは面倒なものになり、あらゆる闘いは無意味に感じられる。若い時に育んだ情熱も、今や不条理で、自分を幸福にし得なかった夢のように見えてくる。こうして、すべては放置され、何も考えないことが唯一の出口に思われ、頭は空になる。

 この危険な怠惰に対し、霊性の師たちは、様々な対策を考えていた。その中でも最も重要と思われるのは、「信仰の忍耐」とも言える態度である。怠惰に打ちのめされている時、人の心はそこになく、現実から逃避しているが、それに対し、まさに自分の「今この時、この場所」に留まり、ありのままの状況の中に、神の現存を迎え入れる勇気を持つことが大切である。

 修道士たちは、彼らの修室こそが人生の最良の師であると言う。なぜなら、そこは具体的かつ日常的に、主との愛の物語を語る場所だからである。怠惰の悪魔は、今ここにある素朴な喜び、現実に対する感謝に満ちた驚きを壊そうと企んでいる。そして、すべては虚しく、無意味だと、わたしたちに思い込ませようとする。

 無気力に囚われ、漠然とした不安に動かされて、これまでたどってきた善の道を愚かにも放棄してしまう人たちがどれだけいることだろうか!怠惰との闘いは、肝要な戦いであり、何が何でも勝たなくてはならない。

 怠惰との闘いは、聖人たちでさえも免れることはできなかった。多くの聖人たちの日記には、すべてが闇に見える、信仰の夜の恐ろしい体験が書かれている。これらの聖人たちは、「信仰の貧しさ」を受け入れながら、忍耐のうちに、夜の闇を乗り越えることをわたしたちに教えている。

 聖人たちは、無気力に苦しめられている時、やるべきことの量を少なく保ち、到達が容易な目標を設定すると同時に、誘惑の中にわたしたちを決して見捨てることのないイエスに寄り頼み、無気力に抵抗し、耐え抜くようにと勧めている。

 怠惰の試練に苦しめられた信仰は、価値を失うことはない。むしろ、真の信仰、非常に人間的な信仰は、すべてに関わらず、たとえ闇に視界を失っても、いまだ謙遜に信じ続けるのである。

14 2月 2024, 15:47