「神のみことばと他者への奉仕に開くキリスト者」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、12月13日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われた。
前回「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をめぐるカテケーシスの一連の考察を終えた教皇は、この日は「エッファタ」(開け)という言葉をキーワードに、このテーマ全体をもう一度振り返った。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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(朗読)
イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった(マルコによる福音書7,31-35)。
このカテケーシスでわたしたちは、福音宣教の情熱を育てるための助けを、神のみことばからくみとった。それは、洗礼の際、「主の声を聞くことができるように」、「神のことばに応えることができるように」、耳や唇に十字架のしるしを受けることからもわかるように、すべてのキリスト者に言えることである。
わたしたちは、耳が聞こえず舌の回らない人をいやすイエスのエピソードに先ほど耳を傾けた。福音記者マルコは、イエスの足取りをたどりながら、この奇跡がどこで起きたかを記している。これらの地方に共通することは何か。そこには異教徒が多く住んでいたということである。
聖書の中で、耳が聞こえない状態は、神の呼びかけに心を閉じていることの隠喩でもあった。
福音はこのエピソードにおけるイエスの決定的なことばをアラム語で伝えている。それは「エッファタ」(開け)という言葉であった。それはこの耳が聞こえない人にだけでなく、当時の、そしてあらゆる時代の、イエスの弟子たちに向けられている。
わたしたちも、洗礼において、聖霊の「エッファタ」を受け、「開く」ようにと召された。「開きなさい」とイエスはご自身の教会のすべての信者に言われる。それは福音のメッセージが証しされ、伝えられるために、わたしたちが必要とされているからである。
キリスト者は神のみことばに開き、また、他者への奉仕に開いていなければならない。閉じたキリスト者は、キリストを信じる者ではなく、イデオロギーの信奉者である。キリスト者はみことばの告知に開き、兄弟姉妹たちの受け入れに開いているべきである。それゆえに、この「エッファタ」は、わたしたちすべてに自らを開くようにとの招きなのである。
イエスの福音はわたしたちに宣教の意欲をもたらしてくれる。彼方に、羊を牧すため、福音を告げるために出かけよう。