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教皇フランシスコ 2023年11月22日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2023年11月22日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 

「福音が皆のものであることを忘れない」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、11月22日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 フランシスコは、11月22日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中の「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をめぐるカテケーシスで、教皇は福音宣教を「皆のため」という視点から捉えられた。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 前回は、キリスト教的告知とは「喜び」である、ということを考えた。今日は福音宣教の二つ目の特徴、それが「皆のため」である、という点を考察したい。

 主イエスと真に出会う時、その出会いの驚きはわたしたちの人生を満たし、自分たちの外にそれをもたらしたくなる。イエスの福音は「皆のために」、これがイエスが望まれることである。キリストは皆のために生まれ、死に、復活されたがゆえに、イエスの福音はすべての人に向けられた、人生を完成させる力を持っている。

 使徒的勧告『福音の喜び』にはこうある。「すべての人に福音を受け取る権利がある。キリスト者は誰も除外することなく、それを告げる義務がある」(同n.14)。兄弟姉妹たち、すべての人に向けられた福音への奉仕を感じ、自分自身から抜け出し、あらゆる境界を超える力を見出そう。キリスト者は、香部屋よりも、教会の前庭にいて、「町の広場や路地に出ていく」(ルカ14,21)。キリスト者は開かれ、外に向かう性質を持っている。この性質は、すべての人と出会うために、時にはある種の出会いから学びつつ、歩み続けたイエスから来るものである。

 こうした意味において、福音はイエスと異邦人であるカナンの女との驚くべき出会いを伝えている。カナンの女は病気の娘をいやして欲しいとイエスに嘆願した(参照 マタイ15,21-28)。イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えられたが、カナンの女は、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言った。その言葉に胸を打たれたイエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われた。

 イエスとカナンの女とのこの出会いは、特別な意味を持っている。イエスの考えを変えさせただけではない。イエスの対話の相手は、一人の女性、異邦人、異教徒だからである。しかし、主はここで、ご自分の説教はご自身が属する民だけでなくすべての人に開かれたものでなくてはならない、と確信するのである。

 聖書において、神が誰かを召される時や、神がある人々と契約を結ぶ時、常にある決まりがある。それは「他の人々に伝えるために、誰かを選ぶ」ことである。主の友たちは、素晴らしい体験を得ると同時に、主から選ばれたことに対する責任と重荷を感じる。誰もが自分の弱さのために、あるいは安定の喪失のために落胆を感じる。しかし、最も大きな誘惑は、自分が受けた召し出しを一つの特権のように考えることである。召し出しは特権ではなく、奉仕のためである。神は皆を愛され、すべての人にそれを届けるために、誰かを選ぶのである。

 また、キリスト教を、ある文化、民族、制度と、同一視する誘惑を避けなければならない。なぜなら、そうすることで、真のカトリック性、すなわち普遍性を失ってしまうからである。神は皆を愛するために誰かを選ばれることを忘れてはならない。この普遍的な視野を持とう。福音はわたしだけのものではなく、皆のものであることを忘れないようにしよう。

22 11月 2023, 20:51

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