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教皇フランシスコ 2023年11月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2023年11月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

福音宣教に不可欠な「喜び」について考える、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、11月15日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、11月15日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をめぐる一連のカテケーシスのまとめに入られた教皇は、この日は福音宣教を「喜び」という観点から考察された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 福音宣教の様々な証し人との出会いの後、この「使徒的熱意」をめぐる一連のカテケーシスを、発表から10年を迎えた使徒的勧告『福音の喜び』からくみ取った4つの要点においてまとめたい。今日はその4つの要点の一つ、福音宣教的な態度に欠かせない「喜び」について考えてみよう。

 キリスト教的メッセージとは、天使が羊飼いに告げたように、「大きな喜び」(ルカ2,10)を告げることである。その喜びの理由とは、単なる良き知らせ、驚き、素晴らしい出来事以上のもの、それはイエスご自身である。人となられた神、イエスそのものが喜びなのである。問題は、イエスを告げるか、告げないかではなく、いかに告げるか、イエスを喜びをもって告げるかどうかにある。

 不満を抱えた悲しいキリスト者、怒りや恨みを持ったキリスト者は、信頼されない。こうした人がイエスについて話しても、誰も信じないだろう。福音を告げるために、喜びは本質的なものである。

 福音宣教とは無償のものである。なぜならそれは強制によるのではなく、満たされたところから生まれるためである。また、福音とはイデオロギーではない。福音は喜びの告知である。イデオロギーは冷たいものだが、福音には喜びの温かさがある。

 イエスの降誕は、歴史において、また人生において、喜びの源である。エマオでイエスと出会った弟子たちの喜び (参照 ルカ24,13-35)、高間にイエスが現れた時に集っていた弟子たちの喜びを考えてみよう。それは復活したイエスを迎えた喜びである。イエスとの出会いは常に喜びをもたらす。そうでなければ、それは真の出会いではないと言える。

 これらのエピソードは、弟子たちがまず最初に福音を受けるべきだということを教えている。最初に福音を受けるべきは、わたしたちキリスト者である。

 あわただしく混乱した今日の風潮に囲まれ、わたしたちも、福音はもう聞いてもらえず、それを告げる努力も無駄だと、諦めに近い気持ちで信仰を生きることがあるかもしれない。時には、他の人たちはそれぞれの道を行けばいい、と考えたい誘惑にさえ襲われるかもしれない。しかし、まさにこういう時こそ、「変わることなく、若きままで、新しさの源であり続ける」キリスト(使徒的勧告 福音の喜び、11)を見出すために、福音に立ち返る時である。

 そうすることで、イエスと出会い、人生を変えられたエマオの二人の弟子のように、宝を見つけた人の足取りで日常生活に帰ることができるだろう。そして、人々の間には希望の言葉を待つ兄弟姉妹たちがあふれていることを知るだろう。福音は今日も待たれている。特に宗教的意味が欠如している今日の社会こそ、イエスを必要としている。今こそイエスを告げるのにふさわしい時である。

 それゆえ、改めて皆に言いたい。「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」(福音の喜び、1)。

 このことを忘れないようにしよう。もしこの喜びを感じない人がいるならば、本当にイエスと出会ったのかを自問するとよい。今日、すべてのキリスト者に、イエスとの出会いを新たにするよう呼びかけたい。今日、それぞれの人に時間を見つけて考えて欲しい。

 「イエスよ、あなたはわたしの中におられます。わたしはあなたと毎日出会いたいのです。あなたは概念ではなく、一人のお方です。あなたは決められた事柄ではなく、わたしの歩みをともにするお方です。あなたは多くの問題を解決する愛です。あなたは福音宣教の源です。イエスよ、あなたは喜びの泉です」。アーメン。

15 11月 2023, 17:55

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