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ベネディクト16世および最近帰天した枢機卿・司教の追悼ミサ

教皇フランシスコは、ベネディクト16世およびこの1年間に帰天した枢機卿・司教らの追悼ミサをとり行われた。

 カトリック教会は伝統的に11月を「死者の月」とし、キリスト者として教会の交わりの中で生き、亡くなった人々を記憶し、これらの人々のために祈ると共に、キリスト教的観点から、死と、死の彼方の世界を見つめるように招いている。

 教会暦で「死者の日」を記念した11月2日(木)、ローマの戦没者墓地でミサを捧げた教皇フランシスコは、その翌日3日(金)、バチカンで、昨年12月31日に亡くなったベネディクト16世およびこの1年間に帰天した6人の枢機卿と147人の司教らの追悼ミサをとり行われた。

 日本では、大分教区名誉司教ペトロ平山高明司教が今年7月15日に99歳で、また、東京大司教区の元補佐司教、パウロ森一弘名誉司教が9月2日に84歳で亡くなっている。

 聖ペトロ大聖堂の司教座の祭壇で捧げられたこのミサには、バチカン関係者や多くの信者らが参列した。

 教皇は説教で、ミサ中の福音朗読箇所、ルカ福音書のイエスがやもめの息子を生き返らせるエピソード(ルカ7,11-17)を取り上げ、そこに、一人息子を亡くしたやもめを「見て」不憫に思うイエスの大きな「憐み」の心、また、神しか頼るものがないやもめの「謙虚さ」を見つめられた。

 教皇は、ベネディクト16世が最初の回勅『神は愛』の中で、イエスの憐れみの眼差しと、愛が必要とされる場所に具体的に働きかけるその姿を、「見ることができる心」と表現していることを指摘。

 信仰とは、理解すべき考えや引き受けるべき道徳である以前に、わたしたちの苦しみを前に胸を強く打たれ、深い憐みの眼差しを注がれるイエス・キリストとの出会いであると、繰り返し説いていた前教皇を思い起こされた。

 イエスの憐みは、やもめの死んだ一人息子を生き返らせた。イエスは、一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、棺に手を触れ「起きなさい」と死んだ若者に命じた。

 ここでイエスは、他の奇跡とは異なり、誰から嘆願されることもなく、また教えを述べることもなく、直接奇跡を行われていることに教皇は注目。それは、聖書に示されているように、孤児や、異邦人と同様、やもめは、神以外に頼るものがない、最も見捨てられた存在として認識されていたからである、と説明された。

 実際、やもめや孤児は、自分自身ではなく、神に希望をかける最も謙遜な存在であり、人のもとへと降りて来られたご自身も謙遜である神は、こうした神だけに信頼を寄せる人々を愛される、と教皇は述べた。

 教皇は、ベネディクト16世がその登位のはじめに、自身を「主のぶどう畑のつつましい働き手」と呼んだことを振り返りつつ、すべてのキリスト者、特に教皇、枢機卿、司教は、自分の実りではなく、主のぶどう畑の実りをまず気にかける、謙遜な奉仕者として働くよう召されている、と強調された。

 わたしたちが憐れみ深い眼差しと、謙遜な心を持てるよう神に祈ろう、と教皇は招くと共に、牧者の心、憐れみ深い謙遜な心をもって神のために生きた故人たちが、いま神の中にその永遠の安息を見出しているようにと祈り願われた。

 

03 11月 2023, 18:23