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「ただ愛だけが心の渇きをいやす」教皇、モンゴルでミサ

教皇フランシスコは、モンゴルの首都ウランバートルで、信者たちのためにミサをとり行われた。

 教皇フランシスコは、9月3日(日)、モンゴル滞在3日目午後、首都ウランバートルの「ステップ・アリーナ」でミサをとり行われた。

 主にアイスホッケー競技に使用されている会場では、モンゴルの全カトリック共同体に、近隣国からの巡礼団を合わせた、およそ2千人の参加者が教皇と共にミサを祝った。

 ミサの中で教皇は、モンゴルの草原と砂漠のイメージを重ねながら、人間の内的な渇きと、それをいやす神の愛をテーマに説教を行った。

 「神よ[…]わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾き切った大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」という詩編(63,2)の一節を、教皇は「人生という荒れ野を横切るように召されたわたしたちの旅の中の祈り」として観想。

 「まさにこの荒野を行くわたしたちに届いたもの、それは、わたしたちはこの歩みにおいて独りではない、という福音である」と話された。

 「神なる御父は、御子を遣わされ、わたしたちの魂の渇きをいやす聖霊の生きた水を与えようとされた。」

 「イエスはわたしたちの渇きをいやすための道を示される。それはイエスが十字架に至るまでつき進み、わたしたちにもそれに従うようにと招く、愛の道である。」

 と教皇はこのように説かれた。

 わたしたちは「神の遊牧民」であり、「幸福を探す巡礼者、愛に渇いた旅人」である、と教皇は述べつつ、この渇きの中にこそ、わたしたちをご自分の子とするために会いに来られる生ける神、愛の神にわたしたち自身を開かせる、大きな神秘が隠されている、と話された。

 わたしたちの人生の激しい渇きを、成功や権力、物的なものでいやそうとすることは、何ももたらさないどころか、人生をより乾き切ったものにしてしまう、と注意を促された教皇は、それに対して「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16,24-25)とイエスが説く道を示された。

 「イエスがモンゴルの皆さんに啓示しようとされるもの、それは幸福であるために、偉大さや富や権力は必要なく、ただ愛だけがわたしたちの心の渇きと傷をいやし、真の喜びをもたらすという真理である。これがイエスがわたしたちに教え、わたしたちのために開かれた道である」と、教皇はこのように話し、小さな群れを励まされた。

03 9月 2023, 22:03