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教皇フランシスコ 2023年3月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2023年3月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

「キリスト者への召し出しは、使徒職への召し出し」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、3月15日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、3月15日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見を行われた。

 この日、教皇は謁見中の「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をめぐるカテケーシスで、「第2バチカン公会議 2.使徒的教会において使徒であること」をテーマに話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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(朗読箇所) 「その後、主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」(ルカ10,1-2)

 福音宣教の情熱についてのカテケーシスを、第二バチカン公会議の教えのもとに続けよう。そして、今日において使徒であるということが何を意味するのかを理解しよう。

 「使徒」と言う時、わたしたちはイエスによって選ばれた十二使徒の一団を思い浮かべるだろう。時には、ある聖人や、あるいは一般的に司教たちをこう呼ぶこともある。しかし、わたしたちはすべてのキリスト者が使徒であることを自覚している。実際、わたしたちは使徒信条にもある「使徒的」教会において、使徒となるよう招かれている。

 では、使徒である、とはどういうことだろうか。それは「宣教に派遣された者」である、ということである。復活されたキリストは、使徒たちを世界に遣わし、彼らに聖霊を与えると共に、ご自身が御父から受け取った権能を彼らに授けられた。これについてヨハネ福音書は次のように記している。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20,21-22)

 使徒であることのもう一つの本質的な点は、召命、つまり召し出しである。主イエスが「これはと思う人を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」(マルコ3,13)と福音書にあるように、使徒たちが形成される初めから召し出しがあった。イエスは弟子たちをグループにし、彼らを使徒と名付けられた。それは「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ」るためであった(参照 マルコ3,14、マタイ10,1-42)。

 聖パウロは、その書簡の中で、「召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」(1コリント1,1)、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1,1)と自らを紹介している。また、パウロは、自身が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(ガラテヤ1,1)ことをも強調している。

 十二使徒の体験とパウロの証しは、すべては神の無償の召命によるという動かせない観点から、自分たちの態度や選択を見つめ直すよう、今日のわたしたちに問いかけている。神は時にはわれわれの能力や期待をはるかに超えた奉仕のためにわたしたちを選ばれる。無償で受けた受けた召命には、無償で応えなくてはならない。

 第2バチカン公会議はこのように言う。「キリスト者としての召し出しは、その本質上、使徒職への召し出しである」(信徒使徒職に関する教令2)。そして、「各構成員の品位はキリストにおける再生によって共通、神の子らの恩恵も共通である」ように、その召し出しは共通である(教会憲章32)。

 その召し出しは、聖職者に叙階された者、修道者、また信徒にも与えられる。「教会の中には様々な役職があるが、使命は一つである。使徒とその後継者は、主の名によって教え、聖化し、治める任務をキリストから受けた。しかし、キリストの司祭職、預言職、王職にあずかる者となった信徒もまた、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすのである」(信徒使徒職に関する教令2)。

 こうしたことを背景に、公会議は教会の聖職位階制と信徒との協力関係をどのように捉えているだろうか。

 唯一の使命のもとに集うカリスマや役務の多様性が、教会のからだの中に優越的な部分を設けることはない。「ある人々はキリストの意志によって他の人々のための教師、秘儀の分配者、牧者に定められているが、キリストのからだの建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある」(教会憲章32)からである。

 この尊厳における平等の問題は、福音宣教において大切な役割を果たすわたしたちの関係の多くの面について、再考を促している。たとえば、われわれのことばが人の尊厳を傷つけ、その関係を壊していることに気づいているだろうか。世界と対話する一方で、信者間の対話ができているだろうか。他者の考えを理解するために耳を傾けられるだろうか、あるいは自分の考えを押し付けてはいないだろうか。

 こうした問いを恐れてはならない。これらの問いは、わたしたちキリスト者の召命の生き方、使徒的教会の中での使徒としてのあり方を、吟味させるものだからである。

15 3月 2023, 14:43

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