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名誉教皇べネディクト16世 名誉教皇べネディクト16世 

ベネディクト16世:年譜「主のぶどう畑の謙遜な働き手」

2022年12月31日に95歳で逝去された名誉教皇ベネディクト16世の生涯の主な出来事を公式年譜を通してたどる。

 ヨセフ・ラッツィンガー、教皇ベネディクト16世は、1927年4月16日(聖土曜日)、ドイツのパッサウ教区、マルクトル・アム・インに生まれ、同日、洗礼を受けた。警察官であった父は、バイエルン南部の古い農家の出身、母はキーム湖のほとり、リムスティングの出身で、結婚前は宿泊施設で調理を担当していた。

 幼少期と少年期を、オーストリア国境に近く、ザルツブルグから30㎞の町、トラウンシュタインで過ごした。ベネディクト16世自身が「モーツァルト的」と表現したこの環境の中で、キリスト教的・人間的・文化的育成を受けた。

 青少年期を過ごしたその時代は、決して容易なものではなかった。ナチス政権がカトリック教会に強い敵意を示した時代にあって、信仰と家庭教育が、過酷な経験に立ち向かうための素地を作った。ヨセフ少年は、ミサが始まる前に、ナチス隊員が教会の主任司祭を殴るのを目撃した。

 まさにこの複雑な状況の中で、ヨセフ少年はキリスト教信仰の素晴らしさと真理を見出した。特に、教会への帰属の認識のうちに、常に善良さと希望を目に見える形で証しする家庭の姿勢が、その人間形成に重要な役割を果たした。

 1944年9月まで、対空防衛補助要員として召集された。

 1946年から1951年まで、フライジングの哲学・神学高等学院、およびミュンヘン大学で、哲学と神学を学んだ。

 1951年6月29日、司祭に叙階された。

 翌年、フライジングの高等学院で教鞭を取った。

 1953年、論文「聖アウグスティヌスの教会神学における神の民と神の家」をもって、神学博士となる。4年後、「聖ボナヴェントゥーラの歴史神学」の論考をテーマに大学の教壇に立つことになった。

 フライジングの哲学・神学高等学院で教理神学と基礎神学を教えた後、1959年から1963年までボンで、1963年から1966年までミュンスターで、そして1966年から1969年までテュービンゲンで教職を続けた。1969年、レーゲンスブルグ大学で教理学と教理史学の講座主任教授となると同時に、同大学の副学長を兼任した。

 1962年から1965年、第2バチカン公会議でケルン大司教、ヨセフ・フリングス枢機卿の神学顧問を務め、専門家として多大な貢献を残した。

 熱心な研究活動により、ドイツ司教協議会と国際神学委員会において重要な任務を担った。

 1972年、ハンス・ウルス・フォン・バルタザール、アンリ・デュ・リュバック、その他の偉大な神学者らと共に、神学雑誌「コムニオ」を創刊。

 1977年3月25日、教皇パウロ6世によって、モナコ-フライジング大司教に任命され、同年5月28日に司教叙階。教区司祭がバイエルンの重要な大司教区の長となるのは、80年ぶりのことであった。

 司教モットーは、「真理の協働者」。これについて次のように説明している。

 「ある意味で、わたしのこれまでの教えるという仕事と、新しい使命の間には、関係があるように思われます。たとえそれが異なる方法であっても、これまで重要であったこと、これからも重要であり続けることは、真理に従うこと、真理に仕えることです。また、別の意味で、わたしがこのモットーを選んだのは、今日の世界において、真理というテーマは、ほとんど語られることがないからです。実際、真理がなければ、すべてが粉々になってしまうにも関わらず、それは人間にとって何か大きすぎるもののように思われているからです。」

 パウロ6世によって、同年6月27日の枢機卿会議で、枢機卿に叙任された。

 ラッツィンガー枢機卿は、1978年8月25日、26日に開催されたコンクラーベに出席。このコンクラーベでヨハネ・パウロ1世が選出された。同教皇により、同年9月エクアドル・グアヤキルで開催された第3回国際聖母学会議の特使に任命された。同年10月には、ヨハネ・パウロ2世を選出したコンクラーベに参加した。

 1980年、第5回シノドス通常総会(テーマ:「今日の世界キリスト教家庭の使命」)レラトーレ、1983年、第6回通常総会(テーマ:「教会のミッションにおける和解と償い」)議長代理。

 1981年11月25日、ヨハネ・パウロ2世によって、教皇庁教理省長官および教皇庁立聖書委員会と国際神学委員会の議長に任命される。

 「カトリック教会のカテキズム」起草委員会の議長を務め、1986年から1992年までの6年間の作業の後、新しいカテキズムを教皇に献じた。

 1998年、枢機卿団副主席に選出され、2002年には、枢機卿団主席となった。

 2000年11月13日より、教皇庁立科学アカデミーの名誉会員。

 ラッツィンガー枢機卿は、教皇に選出されるまで、国務省外務局、東方教会省、典礼秘跡省、司教省、福音宣教省、教育省、キリスト教一致推進評議会、ラテンアメリカ委員会、エクレジア・デイ委員会など、教皇庁の様々な組織の理事メンバーを務めた。

 2005年4月19日、ヨハネ・パウロ2世の後継者を選ぶコンクラーベで、第265代ローマ教皇に選出され、ベネディクト16世を名乗った。

 ベネディクト16世は、1730年以降、最も高齢で選出された教皇であり、1724年以降、枢機卿であった期間が最も長い教皇であった。

 2013年2月11日、バチカンで開かれた3人の福者の列聖をめぐる枢機卿会議の席上で、教皇職から引退する旨を次のようにラテン語で宣言された。

 「わたしの良心を繰り返し神の御前で確かめた後、わたしの力は、高齢のため、教皇職をよりよく遂行するためにもう適していないという確信を得ました。この教皇職が、その霊的本質ゆえに、行動と言葉だけでなく、苦しみ、祈りつつ、完成させられるべきであることはよく知っています。しかしながら、速い変化と、信仰生活に対する大きな問題によって揺れる今日の世界において、聖ペトロの船(教会)を統治し、福音を告げるためには、心身の活力が必要ですが、ここ数ヶ月、自分に託された任務をよりよく遂行するための力がないことが自覚されるほど、その活力が減じてきました。そのために、この行為の重大さをよく自覚した上で、完全な自由をもって、2005年4月19日に枢機卿たちによってわたしの手に託されたローマの司教職、聖ペトロの後継者の位(教皇職)を引退することを宣言します」。

 ベネディクト16世は、同年2月28日午後8時をもって、教皇職から正式に退位した。教皇在位期間は、7年10ヶ月と9日。

 ベネディクト16世は、退位後、バチカン市国内のマーテル・エクレジエ修道院で生活され、最後の日まで祈りの生活をおくられていた。

31 12月 2022, 12:02