教皇「高齢においても正義への情熱を保つ」
教皇フランシスコは、5月25日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜恒例の一般謁見を行われた。
この日、謁見中の「老年の意味と価値」をめぐるカテケーシスで、教皇は、旧約聖書「コヘレトの言葉」(2,17-18; 12,13-14)を観想された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。[…] すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」(コヘレト2,17-18; 12,13-14)
「コヘレトの言葉」も、また聖書の中の宝石の一つである。「すべては空しい」という言葉の繰り返しで始まる同書は、わたしたちを驚かせるものである。しかし、意味と無意味の間を揺れ動く「コヘレトの言葉」は、神の裁きを土台とする正義への情熱から遠ざかった生き方に対する、アイロニーを込めた自省の表現である。実際、この書は、試練から抜け出す道として「神を畏れ、その戒めを守れ」という教えを示して終わっている。
すべてが思うようにいかず、何をしても無駄に見える現実を前に、無関心でいることは、失意の苦しみに対する唯一の特効薬のようにさえ思われる。こうした時、われわれの努力でいったい世界が変わるのだろうか、正も不正もどうせ割り切れるものではない、という疑念がわいてくる。
このようなネガティブな考えは生活の中でしばしば現れるが、特に老齢期の失望はほとんど避けがたいものである。しかし、高齢において幻滅に対抗することは重要である。人生のすべてを見てきたお年寄りが正義への情熱を保ち続けることができるならば、そこには愛と信仰に対する希望があるからである。
今日、科学の名のもとに追求されるいわゆる「真理」は、正義への情熱を置き去りにしている。そこにはもはや約束や贖いは存在しない。
コヘレトは、独特のアイロニーをもって、知識や科学を全能とみなす誘惑の仮面を暴いている。いにしえのキリスト教の修道者たちは、知識や科学を絶対と考えたがるこの魂の病、信仰も道徳も失った知の虚栄、正義を伴わない真理の幻想の危険を見抜いていた。その病を彼らは「無気力」と呼んでいた。それは単なる怠惰や憂鬱ではなく、もはや正義への情熱も、それに対して行動する熱意も持たずに、この世の知識に降伏した状態である。
あらゆる倫理責任も、善への愛も拒む、このような知識によって穿たれた虚無は、有害である。それは善への意志を削ぐだけでなく、悪の力の攻撃性に扉を開くこともあるからである。
この愛と責任を伴わない理性は、真理を知ることの意味もそのためのエネルギーも失わせてしまう。たとえば、今日、フェイクニュースや、集団的迷信、偽科学による情報などが見られることも偶然の産物ではない。
高齢者は、コヘレトのアイロニー豊かな叡智から、愛と正義のない真理の氾濫に隠れた偽りを暴き出す方法を学ぶことができるだろう。知恵とユーモアあふれるお年寄りの存在は、人生の知恵を伴わない、悲しい世界観から若い人たちを救うことができるだろう。そして、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ5,6)というイエスの約束を、彼らに思い出させることができるだろう。