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十字架称賛の祝日:教皇「十字架を見つめ、証しする」

教皇フランシスコは、スロバキア東部、プレショフを訪問、十字架称賛の祝日のミサを捧げられた。

 教皇フランシスコは、スロバキア訪問3日目、9月14日(火)、ブラチスラバから、コシツエ経由で、プレショフに向かわれた。

 スロバキア東部プレショフには、ギリシャ(ビザンチン)典礼カトリック教会のエパルキア(教区)が置かれている。

 十字架称賛の祝日を迎えたこの日、教皇はプレショフ市内のスポーツ施設で、ミサ聖祭を司式された。

 儀式は、ビザンチン典礼の伝統豊かに厳かにとり行われ、はじめに十字架の崇敬が行われた。

 説教で教皇は、十字架にキリストの愛を「見つめ」、それを「証しする」者となるようにと招かれた。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています […] 神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1,23-24)。

 聖パウロはこのように宣言する一方で、彼は十字架が人の知恵には「つまずかせるもの」「愚かなもの」(同1,23)であることを隠さない。十字架は死の道具であるが、いのちはそこからやって来る。十字架は誰も見たくないものにも関わらず、それはわたしたちに神の愛の素晴らしさを啓示するものである、と教皇は述べた。

 まさにイエスがつけられた十字架の下にいて、十字架上で死んだイエスを見た福音記者ヨハネは、その出来事を伝えながら「それを目撃した者が証ししている」(ヨハネ19,35)と記した。教皇は、聖ヨハネのように、十字架を「見つめ」「証しする」ことの大切さを示された。

 十字架を「見つめること」。では、聖ヨハネは十字架の下で何を見つめたのか?世の目には十字架は「敗北」であるが、聖ヨハネは十字架の中に神の御業を見つめ、十字架上のキリストに神の栄光を認めた。彼は、人間のためにすすんで自らを与えられる神をそこに見たのである、と教皇は話した。

 神が十字架にかかり死ぬことは、あり得ない、ふさわしくないことに思われる、と教皇は述べつつ、それでも、神があえて人間の惨めさの極みに入ることを選ばれたのは、地上のいかなる絶望した人も、その苦しみや闇や孤独の中で、神と出会うことができるようにと望まれたからである、と強調。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 (マタイ27,46; 詩編 22,1)というイエスの叫びは、わたしたちの苦しみをも引き受けることで、救いの叫びとなった、と説かれた。

 十字架に神の栄光を見つめることを学ぶためには、どうしたらいいだろうか?教皇は、ある聖人たちは十字架を一冊の本にたとえている、と紹介。本を知るためには、開いて、読まなくてはならないように、十字架を買って家にかけたり、身に着けたりするだけでは足りず、十字架の前に立ち止まり、それを見つめ、心を開き、わたしたちの愛のために傷ついた神のために感動しなくてはならない、と語られた。

 十字架を観想することは、次の一歩をもたらす。それは「証しする」ことである、と教皇は指摘。イエスを深く見つめるならば、イエスの御顔はわたしたちの顔に反映され、イエスの考えはわたしたちのものとなり、イエスの愛はわたしたちをとらえ、わたしたちを変容するようになるだろう、と話された。

 そして、スロバキアの歴史の中で、困難を極めた時代にもキリストの愛を証しし、信仰を表した殉教者たちを思い起こされた教皇は、今日、社会の状況は変わっても、十字架ははっきりとした信仰の証しをわたしたちに求めている、と呼びかけられた。

14 9月 2021, 14:05