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教皇フランシスコ 2021年5月5日の一般謁見 教皇フランシスコ 2021年5月5日の一般謁見  (Vatican Media)

「念祷、イエスとの静かな愛の対話」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、5月5日(水)、一般謁見をバチカンから中継で行われた。

 教皇フランシスコは、5月5日、水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からビデオ中継で行われた。

 謁見中のカテケーシスで、教皇は「キリスト教的祈り」をめぐり、「観想的な祈り(念祷)」をテーマに講話された。

 人間の観想的な側面は、いわば生活の「塩」のようなものである、と述べた教皇は、日の出や再び芽吹く春の木々、音楽や鳥のさえずり、また芸術などを前に観想することを通し、人は日常を深く味わうことができる、と話された。

 カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿が、かつて司教としてミラノに派遣された際、最初に発表した司牧書簡は「生活の観想的側面」と題されたものであったと教皇は振り返りながら、実際、人工的で機能中心の大都市に住む人々は、観想する能力を失ってしまう恐れがある、と語られた。

  念祷とは「方法」であると同時に「あり方」である、という教皇は、観想的であることは、目よりも、心によるものであり、ここで祈りは、信仰と愛の行為、神とわたしたちの間に息づくものとして、重要な役を果たすようになる、と話した。

 祈りは心を清め、まなざしを澄んだものとし、現実を別の見方から捉えることを可能にする、と教皇は述べ、こうした祈りによる心の変容を、アルスの聖なる主任司祭、ヨハネ・マリア・ヴィアンネ神父の証しを通して示す、教会のカテキズムの一節を次のように引用された。

 「念祷とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです。聖なる主任司祭がいたころ、聖櫃の前で祈っていたアルスの農夫は、『わたしはあのかたを見つめ、あのかたはわたしを見つめておられます』と話していました。[…] イエスのまなざしの光はわたしたちの心の目を照らし、あらゆることをご自分の真理とすべての人に対するご自分のあわれみとに照らして眺めるようにと教えてくれます」(カトリック教会のカテキズム、2715)。

 「わたしはあのかたを見つめ、あのかたはわたしを見つめておられます」。これこそが、愛に満ちた念祷、多くの言葉を必要としない、最も親密な祈りの姿であり、ここに要るのはただ一つのまなざし、わたしたちのいのちは大きな誠実な愛に包まれている、というただ一つの確信のみである、と教皇は語った。

  イエスはこうしたまなざしの師であった、と述べた教皇は、イエスの生涯は神との親密な交わりの時間・空間・沈黙に欠けたことがなく、天の御父とのその交わりはイエスにとって避けがたい試練をも超えさせるものであった、と話された。

 一例として、福音書の「イエスの変容」を挙げた教皇は、このエピソードは、イエスのまわりで拒否や無理解が広がる中、イエスがご自身の受難と死と復活をはっきりと予告し始めた頃のことであった、と指摘。

 このような時、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登るが、ここで「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(参照 マルコ9,2-3)。無理解の闇の中で輝いた神々しい光、それは御子を満たし変容させる御父の愛の光であった、と教皇は説かれた。

 観想を行動の対極に置き、世の中とその問題から逃避し、祈りに専念するよう説く、いにしえの霊性の師たちもいるが、イエス・キリストと福音の中には観想と行動を対立させるものは何もない、と教皇は語り、これらの考えはおそらく新プラトン主義の影響を受けたものであろう、と話された。

 福音における唯一の大きな招きは、イエスに従い愛の道を歩むようにとの招きであり、この意味で慈愛と観想は一体である、と教皇は強調。十字架の聖ヨハネは、純粋な愛の小さな行為は他のあらゆる業を合わせたものよりも教会にとって有益であると確信していた、と話された。

 「あのかたを見つめ、あのかたに見つめられる」、イエスとのこの静かな愛の対話は、教会に多くの善をもたらすだろう、と教皇は語られた。

05 5月 2021, 15:14