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復活の聖なる徹夜祭:教皇「主と共にガリラヤから再び始めよう」

教皇フランシスコは、2021年度の「復活の聖なる徹夜祭」を祝われた。

 4月3日、「聖土曜日」の日没と共に、教会の典礼は「復活の主日」に入った。

 教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂の司教座の祭壇で、2021年度の「復活の聖なる徹夜祭」を祝われた。

 「あらゆる徹夜祭の母」と呼ばれる「復活の聖なる徹夜祭」は、キリスト教の本質を表す豊かな象徴で満ちている。

 この式では、火の祝別や復活の大ろうそくを掲げた行列、「エクスルテット」(復活賛歌)の朗唱、救いの歴史における神の御業を思い起こすと共に、キリストの復活を告知する豊かな朗読などが行われた。

 復活徹夜祭の特徴の一部である洗礼式は、昨年に続き行われなかったが、参列者らはここで洗礼の約束を新たにした。

  教皇は説教で、先を歩むイエスの招きに応え、わたしたちもガリラヤに向かい、主と共にそこから再出発しようと、信者らを励まされた。

 教皇フランシスコの説教は、以下のとおり。

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 婦人たちは主の遺体に香油を塗ろうと思っていました、ところが、墓は空でした。死者を弔い、泣くために行きました、ところが、いのちの告知を耳にしました。それゆえ、福音書は、彼女らは「震えあがり、正気を失っていた」(マルコ16,8)と伝えます。「震え」、これは彼女らの心を満たした、喜びと混ざり合う一種の恐れです。墓の大きな石は取り除かれ、中に白い衣を着た若者を見ました。そして、婦人たちは驚異をもってこの言葉を聞いたのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」 (同16,6)。そして、婦人たちは次の招きを受けます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(同16,7)。わたしたちもこの招き、復活の招きを受けましょう。復活された主が先に行かれるガリラヤに行きましょう。しかし、「ガリラヤに行く」とは何を意味するのでしょうか。

 「ガリラヤに行く」とは、まず何よりも「再び始める」ことを意味します。そこは、弟子たちにとって主との最初の出会いの地、主が彼らを探し、ご自分に従うようにと招いた場所です。いわば、最初の出会いと最初の愛の地です。あの時から、弟子たちは網を捨て、イエスに従い、その説教に耳を傾け、イエスが行う奇跡に立ち会ったのです。しかし、彼らはいつもイエスと共にいながらも、イエスを完全に理解したわけではありませんでした。しばしばその言葉を誤解し、十字架を前にしては、イエスを一人置き去りにし、逃げ去ってしまいました。このような失敗にも関わらず、復活された主は、以前のように弟子たちの前に現れ、彼らに先立ってガリラヤに行かれます。すなわち、復活されたイエスは、弟子たちの前を歩まれるのです。イエスは弟子たちを呼ばれます。ご自分に従うよう、飽くことなく、繰り返し呼びかけられます。イエスは言われます。「わたしたちが共に始めたところから、また再び始めよう。再出発しようではないか。すべての失敗を乗り越えて、あなたたちを再びわたしのもとに置きたいのだ」。わたしたちはこのガリラヤにおいて、われわれの数々の失敗にも関わらず、新たな道を開いてくださる、主の無限の愛を学び取るのです。

 わたしが皆さんに示したい復活の第一の告知、それは、「やり直すことは、常に可能である。いかなる失敗があっても、神はわたしたちにやり直すことを可能としてくださる」ということです。わたしたちの心の残骸からも、神は素晴らしい芸術作品を創造することがおできになります。わたしたち人類の粉々になった遺物からも、神は新しい歴史を準備されます。神はいつも、苦しみや絶望の、死の十字架において、わたしたちの前を行かれます。こうしてまた、よみがえる生命の栄光においても、移り行く歴史においても、希望の再生においても、神はいつもわたしたちの前を歩まれます。新型コロナウイルスによるパンデミック危機にあるこの時においても、再び始めるように、決して希望を失うことのないように招かれる、主のみ言葉に耳を傾けましょう。

 「ガリラヤに行く」とは、また「新しい道」を行くことをも意味します。それは、墓とは反対の方向に向かうことです。婦人たちは墓にイエスを探しに行きました。すなわち、イエスと共に過ごした時のこと、そして、今は失なわれたことの思い出をたどり、悲しみに沈むためでした。これは、素晴らしかったが今はすでに終わってしまったことを単に記憶するための、信仰のイメージです。多くの人々は「思い出の信仰」を生きています。あたかもイエスは過去の人物で、遠い昔の若かりし頃の友人、子ども時代、カテキズムに通っていた頃の出来事であるかのようです。習慣と化した信仰、過去の産物、小さい頃の遠い思い出、今の自分にはまったく関係ないものに成り下がっています。ガリラヤに行くことは、信仰が生きたものであるために常に歩み続けなければならないことを教えてくれます。毎日、新しく歩み出さねばなりません。最初の出会いの感動を新たにしなければなりません。そして、何もかも知り尽くしているという思い上がりなしに、謙遜のうちに神の道の導きに委ねる必要があります。子どもの頃の思い出に神を閉じ込めず、いつも生きておられる方、わたしたちに驚きをもたらすお方を、再発見することが大切です。復活されたイエスは、絶えずわたしたちに驚嘆をもたらします。

 復活の第二の告知、それは、信仰はかつての思い出ではなく、イエスは過ぎた昔の人ではないということです。イエスは今ここで生きておられます。あなたが生きる状況の中で、あなたが抱える困難の中で、あなたが心に育む夢の中で、毎日あなたと共に歩まれます。

 「ガリラヤに行く」、またそれは、辺鄙な地に行く、ということも意味します。ガリラヤは中央から離れた場所でした。そこには、エルサレムの正当な生き方からは、だいぶ逸れた生き方をする人々が住んでいました。それにも関わらず、イエスはご自身の使命を、このような土地から始めました。毎日の暮らしに苦労する人々や、疎外された人々、弱い人々、貧しい人々、落胆した人々、行き先を見失った人々に、神の御顔、神の現存を示すために福音を述べ伝えました。なぜなら、神の目には誰も最後の者はなく、除外される者はないからです。復活されたイエスは、今日もわたしたちにそこに行くよう願っておられます。毎日の生活の場、毎日歩く道、住む街角に出て行くよう主は望まれます。まさしく主はわたしたちの先を行かれ、その場におられます。わたしたちと共に時を、家を、仕事を、疲労を、希望を共有する人々の中に、主は現存されます。希望に満ちた人々、あるいは絶望の淵にある人々、喜ぶ人々、苦しみ泣く人々、特に貧しい人々、疎外されているこのような兄弟たちの中に、復活されたキリストを見出すことを、このガリラヤで学びましょう。神の偉大さがいかに小ささの中で現れ、その美しさがいかに単純な人々や貧しい人々の中で輝くかを見て、わたしたちは驚かされることでしょう。

 第3の復活の告知は、復活されたイエスは限りなくわたしたちを愛し、いかなる時にもわたしたちを訪ねてくださるということです。主は世界の中心に現存されます。そして、わたしたちは、あらゆる障害を克服し、偏見を改め、神の日常の恵みを再発見するために、自分の周りにいる人々に近づくよう招かれています。わたしたちのガリラヤに、毎日の生活の中に、復活された主の現存を認めましょう。主と共に生活は変わるでしょう。なぜなら、すべての敗北、悪、暴力、苦しみ、死に関わらず、復活された主は生きておられ、歴史を導かれるからです。

 姉妹、兄弟の皆さん、もしこの夜、困難や、失望、敗れた夢に苦しんでいるならば、大きな驚きをもって復活の告知に心を開いてください。「恐れるな。主は復活された、ガリラヤであなたを待っておられる」。あなたの期待は満たされ、涙はぬぐわれ、恐れは希望に打ち負かされるでしょう。なぜなら、主はあなたの先を歩み、あなたの前を進まれるからです。そして、常に主と共に、新しい人生が始まるのです。

03 4月 2021, 22:49