聖木曜日:教皇とローマ教区の司祭たちによる聖香油のミサ
「聖木曜日」、4月1日午前、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、ローマ教区の司祭たちと共に「聖香油のミサ」をとり行われた。
「聖木曜日」は、復活祭直前の一週間「聖週間」中の木曜日をいう。
「聖香油のミサ」は、「聖木曜日」、司教座聖堂で司教とその教区の司祭たちの共同司式によって捧げられる。
昨年、コロナウイルス感染拡大防止のための厳しい制限下において、「聖香油のミサ」は「聖木曜日」から延期して行われたが、今年は現行の防止策に従いながら、ローマ教区の聖職者理事会メンバーの司祭たち参加のもと、ローマ司教である教皇と共同司式でミサが捧げられた。
このミサ中、司祭たちは「司祭叙階時の約束」を新たにした。
聖油の祝別の儀式では、教皇は、助祭たちが運んだアンフォラ(取手のついた壺)に入った、病者用聖油、洗礼志願者用聖油、堅信等に用いる聖香油の、三種の油をそれぞれ祝別された。
説教で教皇は、ミサ中朗読されたルカ福音書4章の、イエスが故郷ナザレの会堂で説教した時のエピソードを取り上げられた。
この時、ナザレの人々は最初「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」(ルカ4,22)。しかし、彼らは同時に「この人はヨセフの子ではないか」(同4,22)とささやき合った。
イエスは、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」(同4,23)と言われた。そして、イエスは、預言者が自分の故郷で歓迎されない例として、エリヤはイスラエルの大飢饉の際、異邦人のやもめのもとに遣わされ、エリシャの時代、イスラエルには重い皮膚病を患った人が多くいたが、彼はシリア人のナアマンだけを清くした、と指摘した。
これを聞いたナザレの人々は憤慨し、イエスを町の外に追い出し、山の崖から突き落とそうとしたが、イエスは人々の間を通り抜けていかれた。
教皇はこのエピソードに、イエスの言葉を聞いた人たちの、感嘆から怒りへ、さらにはイエスを殺そうとするほどの残忍さへと、劇的に移り変わるその感情に注目。「福音の喜びの告知と、迫害・十字架は切り離せないものである」と強調された。
福音の告知には具体的な十字架が伴う、と述べた教皇は、御言葉の柔らかな光は、よく整った心には明解さをもたらすが、そうでない心には混乱と拒絶をもたらす、と話された。
そして、教皇はこのことを象徴するイエスのいくつかのたとえやエピソードを挙げられた。
‐ある人が良い種を畑に蒔いたが、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った (参照 マタイ13,24-30.36-43)。
‐いつくしみ深い父の優しさは、放蕩息子に家に帰ろうとの思いを抱かせたが、それは放蕩息子の兄を憤慨させた(参照 ルカ15,11-32)。
‐ぶどう園の主人の、一番最後にやって来た労働者たちへの寛大さは、朝から働いていた労働者たちの不平を招いた(参照 マタイ20,1-16)。
‐罪びとたちと食事し、徴税人ザアカイやマタイ、異邦人であるサマリアの女などの心をつかむイエスに対し、自分を正しいと思う人たちは軽蔑の念を抱いた。
このようなたとえやエピソードを通し、福音の告知が迫害と十字架に神秘のうちに結ばれていることを示された教皇は、われわれの司祭生活にも、無理解や拒絶、迫害などの十字架が「あらかじめ」与えられている、と司祭らに語った。
教皇は、実際、イエスの十字架は偶然の産物ではなく、公生活の始まりはもとより、その生涯の最初から存在していたのであり、イエスは一切のあいまいさも妥協もなく、その十字架を完全に引き受けられた、と話された。
説教の最後に、教皇は十字架を引き受けるということについて、ご自身の一つの思い出を紹介された。かつて、ご自分に主の恵みを必要とする非常に困難な時期があったが、ある黙想指導の終わりに、一人の高齢の修道女に自分のために神の恵みを祈って欲しいと頼んだ。すると修道女は「主はもちろんお恵みをくださるでしょう。しかし、間違えないでください。神様の方法を通してです」と言った。この修道女の言葉はとても有益だった、と教皇は語った。
そして、教皇は、十字架はこうして苦しみそのもののためではなく、愛のために与えられる、と説かれた。