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教皇フランシスコ 2020年10月14日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2020年10月14日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)

「祈る人は、希望を失うことがない」詩編を考察、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、10月14日(水)の一般謁見で、「詩編の祈り」をテーマに講話を行われた。

 教皇フランシスコは、10月14日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中、教皇は「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、この日は「詩編の祈り」をテーマに話された。

 教皇のカテケーシスは次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 聖書を読む時、わたしたちはいろいろな種類の祈りに出会います。聖書の中には、祈りだけを取り扱う箇所もあります。いわゆる旧約聖書の詩編です。ここには、なんと150篇もの祈りが収められています。聖書の中で、詩編は、神との対話を通して祈ることを教えてくれる特別な書物です。

 詩編には、喜びや悲しみ、疑いや希望、苦しみなど、人間生活を彩るあらゆる人間感情が表現されています。教会の教えは、それぞれの詩編が、あらゆる時代のあらゆる状況における、人間の心からほとばしる祈りを表すものと教えます。何回も詩編を読むことで、わたしたちはどのように祈るべきかを学びます。どのように神に感謝し、懇願し、喜びや苦しみにおいて祈り、神の不思議な働きやその掟をいかに物語ればよいかを人々に教えるために、神なる御父は、ダビド王や他の預言者たちに、聖霊を通して霊感を授けたのです。 言うならば、詩編は、神と語らうために人間が用いることのできる、神の言葉そのものです。

 この詩編の書には、単なる美辞麗句や、抽象的な思いなどはありません。詩編は、机上で作られたものではないのです。生きた人間の現実の体験から生まれ出た叫びです。詩編を祈るためには、わたしたちはあるがままの自分であれば十分です。 これを忘れないようにしましょう。よく祈るために、わたしたちは小細工をせず、あるがままでよいのです。祈るために、気取る必要はないのです。「主よ、これがあるままのわたしです」。良いことも、自分しか知らない悪いことも含めて、すべてをたずさえ、あるがままの姿で主のみ前に出ることです。詩編の中に、わたしたちは生身の人間の声を聞くことができます。多くの問題を抱え、苦労や疑いを抱き、不確かな感情に覆われた、すべての人々の生の声を聞きます。詩編の中で、多くの苦しみは、疑問に変わっていきます。苦しむことから、様々な「なぜ、なぜなのだ」が生じるのです。

 多くの疑問の中で、詩編の書全体を通し絶えず繰り返される問いがあります。わたしたち自身も、何回も繰り返す問いです。「主よ、いつまで」。苦しみは解放を、涙は慰めを、傷は回復を希求します。「主よ、いつまでこの苦しみを耐え忍ばなければならないのでしょうか。主よ、わたしの祈りに耳を傾けてください」。一体、何回、わたしたちはこのような祈りを捧げたことでしょう。「主よ、いつまで、もう十分です」。

 詩編は、この種の問いを絶えず提示することによって、苦しみに無感覚になることなく、救われるためには、まずいやされる必要があることを思い起させます。

 詩編の祈りは、まさしくこのような人間の心の底からの叫びの証しです。この叫びには、様々な形があります。なぜなら、人の苦しみも一様ではなく、千差万別だからです。病気の時も、憎しみや戦争、迫害や不信の時もあります。そして、最も大きなつまずきは、死です。詩編において、人の死は、人間にとって最大の敵として解されています。すべてを終わらせ、無にしてしまう、これほどにも残酷な罰に、一体どんな罪が値したのだろうか。詩編の中で、人はすべての努力がまったく無であるゆえに、神に何とかしてくださいと願います。これこそが、祈りそのものがすでに救いへの道であり、救いの始まりである所以なのです。

 この世では、神を信じる人も、そうでない人も、誰もが苦しんでいます。しかし、詩編において、苦しみは、一つの関係・関わりとなります。救いを求める叫びは、聞く者の耳に届くことを期待しているのです。 無意味でも、無目的でもあり得ません。わたしたちの苦しみも、一般的な苦しみではなく、いつもわたし個人の苦しみです。わたしが流す涙も、誰のものでもない、わたし自身の涙です。それぞれが、それぞれの苦しみや涙を持ち、それらがわたしたちを祈りへと導くのです。わたし以前に誰も流すことがなかった、わたしだけの涙です。そうです、多くの人が泣きました、でもわたしの涙は、わたし自身の涙です。わたしの苦しみ、悲しみも、皆、わたしの苦しみ、わたしの悲しみです。

 わたしはこの謁見会場に入る前に、先日、イタリアのコモ教区で、まさしく人々の支援をしているさなかに殺害された司祭のご両親に会いました。このご両親の流す涙は、彼ら自身の涙です。貧しい人々を助けるために命を捧げたご子息の、その死のために、ご両親がいかに苦しまれたかは、ご両親だけが知っています。誰かを慰めようとするとき、わたしたちは適当な言葉を見出すことができません。なぜでしょう。彼らの苦しみにまで到達することができないからです。なぜなら、その苦しみは、彼らだけのものであり、その涙も彼らの涙だからです。

 人間のすべての苦しみは、神にとって聖なるものです。詩編第56番は、こう祈っています。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」 (詩編56,9)。神の御前で、わたしたちは知られざる者でも、単なる数字でもありません。わたしたちは皆、神から名前で知られ、顔も心も持つ存在です。

 信じる者は、詩編の中に答えを見出します。彼は、人間の門がすべて閉ざされても、神の門は常に開かれていると知っています。たとえ全世界が断罪しても、神の中には救いがあることを知っています。

 「神は聞いてくださいます」。時に、祈りにおいては、これを知るだけで充分です。いつでも問題が解決されるわけではありません。しかし、祈る人は、希望を失うことがありません。もちろん、この世では、多くの問題は出口を見つけられず、未解決のままに残り、また苦しみもなくならないでしょう。困難を一つ乗り越えても、新たに別の困難がやって来ることも知っています。しかし、わたしたちに耳を傾けてくださる方がおいでならば、すべてはもっと耐えやすくなります。

 一番悲しいことは、誰からも顧みられずに苦しむこと、誰からも気にもされずに苦しむことです。このような状況から、祈りはわたしたちを救ってくれます。わたしたちは神のご計画を完全に理解できるわけではありません。しかし、わたしたちの叫びは、この世に留まるわけではありません。それは父の心をお持ちの神の御元まで昇っていきます。苦しみ、死にゆくすべての息子、娘たちのために、神ご自身がお泣きになります。イエスの涙とその苦しみを思い起こすことは有益です。回心しないエルサレムを見て、イエスは泣かれました。最愛の友人ラザロの墓前で、イエスは泣かれました。神はわたしのために泣かれたのです。神はわたしたちの苦しみのために泣かれます。神は泣くことができるように、生身の人間となられたのです。

 苦しみにあるわたしと共に泣かれるイエスを思うことは、大きな慰めとなるのではないでしょうか。それは、わたしたちが前に進むための助けとなるでしょう。キリストと一致しているならば、たとえ人生が苦しみに欠けることがなくても、より大きな善に向けて、視界が開かれていきます。そして、わたしたちは完成へと歩み続けるのです。

 ですから、皆さん、元気を出して、祈りつつ前進しましょう。イエスはいつもわたしたちと共においでです。

14 10月 2020, 16:49