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教皇フランシスコ 2020年10月11日(日)のお告げの祈り 教皇フランシスコ 2020年10月11日(日)のお告げの祈り  (AFP or licensors)

教皇「神の愛の無償の贈り物を喜びをもって受け取ろう」

教皇フランシスコは、日曜正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「婚宴」のたとえを観想された。

 教皇フランシスコは、10月11日(日)正午、バチカンでお告げの祈りを、広場の巡礼者と共に唱えられた。

 教皇はこの集いで、前日10日(土)、イタリア中部アッシジで、若き信徒、カルロ・アクティス(1991-2006)の列福式がとり行われたことを報告された。

 15歳で帰天したカルロ少年の、聖体に対する大きな愛、最も貧しい人々の中にキリストの御顔を認め、平穏な生活に甘んじることなく、時の求めに応じて行動したその生き方を教皇は紹介された。

 そして、福者カルロ・アクティスの証しは、若者たちに、真の幸福は神を第一に据え、特に最も貧しい人々をはじめ、兄弟たちに奉仕することで見出されると教えている、と話された。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「婚宴」のたとえ(21,28-32)を取り上げ、説教を行われた。

 教皇の説教は以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日のミサで福音朗読された「婚宴」のたとえ話をもって、イエスは、神が人類のためにお持ちになるご計画について説明しています (参照:マタイ22,1-14)。

 息子のために婚宴を開く王は、全人類家族のために、独り子との交わりと、素晴らしい愛のお祝いを準備する、天の御父を表しています (同22,2)。

 王は二回にわたり、人々を婚宴に招くためにしもべたちを派遣します。しかし、招待客は、自分の畑仕事や商売など、他の用事や計画のために、婚宴に行くことを拒否します。わたしたちを招いておられる主よりも、物質的なことがらや自分の関心事を優先することが、わたしたちにもしばしばあるのではないでしょうか。

 主は、わたしたちを婚宴に招いておられます。たとえ話の王は、ご自分の王国の宝を皆に配りたいので、宴席が空になることを望みません。そこで、王はしもべたちに言い渡します。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」 (同22,9)。神はこのように振る舞います。拒否されても諦めることなく、再度、皆を招こうとします。誰も除外することなしに、大通りのここかしこにいる、すべての人々を招きます。神の家から排除される人は、誰もいません。

 福音記者マタイが用いる「通り」という言葉は、元来、道の境界、そこで町の通りが終わり、野原へと続く小道が始まるような、町はずれを指しています。たとえ話の王は、このような十字路にいる人々を、婚宴の席に着かせようとしもべたちを派遣します。

 こうして婚宴の席は王の婚宴の席には似つかわしくない、いわゆる「疎外されていた者たち」や「排除されていた者たち」で満たされます。婚宴の席に似つかわしくないように見える人々です。

 婚宴の主人は、しもべたちに善人も悪人も集めさせます。神は悪人さえお呼びになるのです。「わたしは悪人です。多くの悪事を働きました」と言っても、神は「いいから来なさい、来なさい、来なさい」とあなたをお呼びになります。イエスは、当時の社会で公的な罪びとみなされていた徴税人たちも会食されました。わたしたちを愛し招く神は、多くの悪事によって傷つけられたわたしたちの魂の傷を恐れません。

 教会は、多くの人々が希望もなしに、ぼろくずのように生き、暮らしている最悪の環境、地理的にも社会的にも見捨てられたような状況、いわゆるこの世の果てまで人々を探しに行くよう招かれています。ありきたりの福音宣教や慈善事業に安住せず、すべての人々に向けて、わたしたちの心の扉を、共同体の扉を、大きく開くようにと呼ばれているのです。なぜなら、福音は、数少ない選ばれた人たちのものではないからです。疎外された人々、社会から排除され軽蔑された人々も、神からはその愛にふさわしい人々とみなされているのです。神は、義人、罪人、善人、悪人、教養のある人、ない人も、すべての人々のために食卓を準備してくださいます。

 昨晩、わたしは一人の歳老いたイタリア人神父に電話しました。若い頃からブラジルで宣教師をしていた彼は、いつも疎外された人々や貧しい人々のために働いてきました。その生涯を貧しい人々のために捧げ尽くし、今、その老後を平和のうちに過ごしています。これこそ、わたしたちの母なる教会の姿です。遠く、町はずれまで人々を探しに行く神の使者です。

 しかし、主は一つの条件を置きます。婚宴に入るために、礼服を着用するということです。たとえ話に戻りましょう。宴席が一杯になると、招待主である王が、最後に到着した客人たちにも挨拶に来ます。しかし、そこで婚宴用の礼服、すなわち主人が客に贈り物として与えた衣装を身に着けていない者を発見しました。実は、招かれた人すべてが、正装をして宴席に連なったわけではありません。それぞれが着の身着のまま来ていたはずです。そこで、王は、宴席に入る前に、入り口で、皆に婚宴用の衣装、一種のマントのようなものを贈っていたのです。

 婚宴用の衣装を身に着けていなかった客は、王からの無償の贈り物を拒否したのです。王は彼を追い出すよりほかありませんでした。この人は王の招待を受け入れましたが、そのことを何とも思っていなかったのです。彼は自信満々で、自分自身を変えることも、また主が彼を変えることも、少しも望んでいなかったのです。婚宴用の衣装、それは神がわたしたちに無償でくださる、慈しみ、恵みのシンボルです。この神の恵みなしでは、キリスト教生活においては、一歩も前進できません。

 すべては恵みによるものです。主に従うための招きを受け入れるだけでは、十分ではありません。自分の心を変える、回心の歩みに従う必要があります。神が絶え間なくわたしたちにくださる慈しみの衣装とは、神の愛の無償の贈り物のことです。それは、恵みそのものです。それは、大きな喜びと驚きをもっていただくべきものです。「主よ、この恵みをくださったことに感謝いたします」。

 自分たちの狭い視野や態度から抜け出し、福音のたとえ話のしもべたちに倣い、主は救いの恵みをお与えになるために、すべての人をその婚宴にお招きになる、と告げられるよう、聖母マリアがわたしたちをお助けくださいますように。アーメン。

11 10月 2020, 18:17