検索

Vatican News
教皇フランシスコによる一般謁見 2020年4月29日 教皇フランシスコによる一般謁見 2020年4月29日  (Vatican Media)

「真福八端の道は、復活への歩み」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「義のために迫害される人々は、幸いである」というイエスの教えをテーマに講話された。

教皇フランシスコは、4月29日(水)、バチカン宮殿で一般謁見をビデオを通して行われた。

教皇は、カテケーシス(教会の教えの解説)で、マタイ福音書中の「真福八端」の最後、8番目の教え、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(同5,10)を取り上げ、これによって「真福八端」をテーマにした考察を終えられた。

教皇フランシスコのカテケーシスは以下のとおり。

**********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日のカテケーシスで、「真福八端」をテーマにした一連の考察を終えたいと思います。

先ほど耳を傾けたように、「真福八端」の終わりに、義のために迫害される人々の終末の喜びが宣言されます。この最後の教えが告げるのは、最初の教えと同じ「天の国はその人たちのものである」という幸いです。天の国は、心の貧しい人たちのものであるのと同様に、義のために迫害される人々のものでもあるのです。こうして、わたしたちは「真福八端」の幸いの教えを一巡し、最後に一つのまとまりに到達したことがわかります。

心の貧しさ、悲しむこと、柔和さ、義への渇き、憐れみ深さ、心の清さ、平和への努力は、キリストのために迫害を受けることにつながるかもしれません。しかし、その迫害は、最後には、天国での喜びと大きな報いをもたらすことになるのです。「真福八端」の道は、復活への歩みです。それはこの世に属した生き方から、神に属した生き方へ、肉すなわちエゴイズムに導かれた人生から、聖霊に導かれた人生へと向かわせるのです。

この世は、その偶像と、妥協、彼らが優先したいものによって、このような生き方を認めてはくれません。「罪の構造」は、しばしば、真理の霊からこれほどにも遠い人間のメンタリティーから築かれます。世はこの霊を見ようとも知ろうともしません(参照:ヨハネ14,17)。世は、貧しさや、柔和さ、清さを否定することしかできず、福音が説く生き方を誤りや問題であるかのように、すなわち排除すべき何かのように見なすのです。「彼らは理想主義者か、狂信者なのだ」と、世は考えるのです。

もしこの世がお金に従って動くなら、自分を差し出し、自己犠牲のうちに生きる人は誰でも、利益追求のシステムの中では、目障りな存在となってしまいます。この目障りという言葉は一つの鍵です。キリスト教的証しが多くの人によいものをもたらすことが、世俗的メンタリティーを持つ人々には目障りなのです。聖性と共に、神の子らの生き方が現われる時、その美しさの中には、立場をはっきりさせるようにと招く、安定を揺さぶる何かを人に感じさせます。それは、人からとがめたてられ、敵意を持たれ、議論されても、自らを善に対して開くか、それとも、光を拒み、心をかたくなにするか(参照:知恵の書2,14-15)と問いかけるのです。殉教者たちの迫害において、敵意が憎悪にまでふくらむ様子は注視すべきものです。これは、ヨーロッパの前世紀の独裁体制において、キリスト者とその証し、英雄性に対して、いかに憎悪が形成されたかを見るだけで十分です。

同時に、迫害のドラマは、この世の成功や、虚栄、妥協への隷属から自由な場所があることをも示しています。キリストのためにこの世から拒絶される人は、何を喜びとしているのでしょうか。その人は全世界よりも価値のある何かを見つけたことを喜んでいるのです。実際、「全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」(マルコ8,36)と言われるとおりです。

今この時も世界の各地で迫害に苦しんでいる多くのキリスト教徒たちを、痛みと共に思い起します。彼らの苦難が一刻も早く終わることを希求し、祈らなければなりません。今日の殉教者たちは、初期のキリスト教時代よりも多いのです。これらの兄弟姉妹たちにわたしたちの連帯を伝えましょう。わたしたちは、唯一のからだです。これらのキリスト者たちは、キリストの神秘体、すなわち教会の、血を流している手足なのです。

しかしながら、わたしたちは「真福八端」のこの教えを、被害者的、自己憐憫的な見方で読んではいけません。実際、人々から軽蔑は、常に迫害と同義というわけではありません。この教えのすぐ後で、イエスは、キリスト者とは「地の塩」であると言い、「塩に塩気がなくなる」ことがないように、注意しています。さもなければ、塩は「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ5,13)です。もちろん、わたしたちの過ちのせいで軽蔑されることもあるのです。それは、わたしたちがキリストと福音の味を失った時です。

「真福八端」の謙遜な道を忠実に歩まねばなりません。なぜならこれは、この世ではなく、キリストに属する者となるように導く道だからです。聖パウロの生涯を思い出してください。パウロが自分を正しいと思っていた時、実は彼は迫害者でした。しかし、自分が迫害者だと気が付いた時、愛の人となりました。そして、喜びをもって迫害の苦しみに立ち向かったのです(参照:コロサイ1,24)。

もし神がわたしたちに恵みを賜り、わたしたちを十字架につけられたキリストと似た者とし、イエスのご受難にわたしたちを一致させてくださるならば、締め出しと迫害は新しいいのちの現れなのです。この生き方は、わたしたち人間とその救いのために、「軽蔑され、人々に見捨てられた」(参照:イザヤ53,3、使徒言行録8,30-35)キリストと同じものです。キリストの霊を受け入れることで、わたしたちは心に多くの愛を抱き、この世の欺瞞と妥協することなく、その拒絶を受け入れながら、いのちを世のために与えることができるでしょう。

この世との妥協は危険です。キリスト者は常に、この世の精神に妥協する誘惑にさらされています。妥協を拒み、イエス・キリストの道を行くこと、これが最も大きな喜び、天国のいのちに導かれる生き方です。迫害の中には常にわたしたちに寄り添うイエスの存在があります。イエスはわたしたちを慰めてくださり、聖霊の力がわたしたちを前進させます。福音に忠実な生き方が人々の迫害を招く時も、勇気を失ってはなりません。この道において、聖霊がわたしたちを支えてくださるからです。

 

29 4月 2020, 16:45