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被爆マリア像に献香する教皇フランシスコ 長崎でのミサで 2019年11月24日 被爆マリア像に献香する教皇フランシスコ 長崎でのミサで 2019年11月24日  (ANSA)

教皇、長崎でミサ「声を上げ、愛と平和のみ国を告げ知らせよう」

長崎を訪れた教皇フランシスコは、県営野球場でミサを捧げられた。

訪日した教皇フランシスコは、11月24日(日)午後、長崎市の野球場でミサを捧げられた。

長崎県営野球場「ビッグNスタジアム」でとりおこなわれた教皇ミサには、およそ3万人が参加した。

教皇の到着と共に参加者から歓声が沸き上がった。教皇は、特別車「パパモービル」で会場を一巡され、子どもたちをはじめ、会場の人々に笑顔で祝福を与えられた。

この日、カトリック教会の典礼暦は、一年間のサイクルの最後の日曜日にあたる、「王であるキリスト」の祭日を祝った。

舞台上の祭壇の隣には、被爆マリア像が置かれた。

教皇は、このミサを、式文をラテン語で、説教をスペイン語でとり行われた。

ミサ中、第一朗読(サムエル下5,1-3)、第二朗読(コロサイ1,12-20)に続き、この日の福音として「ルカによる福音書」(23,35-43)が朗読された。

「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

教皇は説教で、イエスとともに十字架につけられた盗人が、イエスが王だと気づき、嘲笑と侮辱の叫びの中で、声を上げ、信仰を宣言したこの言葉を観想された。

無秩序と不正義の場、罪なき者の死の前で、無関心で自己を正当化する者たちの悪口とつぶやきが響く場、カルワリオにおいて、悔い改めた盗人の姿勢によって、その言葉は全人類にとっての希望の一語に変わった、と教皇は述べた。

教皇は、この国は、人間が手にしうる壊滅的な力を経験した数少ない国の一つと述べ、それゆえに、わたしたちは、悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明したいと話した。

救いと確信、それは聖パウロ三木と同志殉教者、そして無数の殉教者たちがそのいのちをもって勇猛にあかししてきたもの、と述べた教皇は、彼らの足跡に従い、その一歩一歩を、勇気を携えて歩むよう励まされた。

「キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、わたしたち皆をいのちの完成へと導いておられる。キリストは生きておられ、わたしたちに生きる者であってほしいと願っておられる。このかたはわたしたちの希望です」と教皇は説いた。

教皇は、宣教する弟子の使命は、家庭、職場、社会、置かれたすべての場所でパン種となること、と話した。

天の国は、わたしたち皆の共通の目的地、と教皇は述べ、それは将来のためだけの目標ではなく、それを請い願い、今日からそれを生きることが大切、と語られた。

そして、病気や障がいのある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲む無関心の脇で、今日それを生きるようにと、招かれた。

「カルワリオでは、多くの声が沈黙させられた。他の大勢は嘲笑し、盗人の声だけがそれに逆らい、苦しむ罪なきかたを擁護できた。それは、勇気ある信仰宣言だった」と教皇は話した。

「沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか」、わたしたち一人ひとりが決断しなくてはならない、と説かれた。

長崎はその魂に、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしとしての、いやしがたい傷を負っている、と教皇は話した。

これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している「第3次世界大戦」によって、今日もなお苦しんでいる、と述べた教皇は、今ここで、一つの祈りとして、わたしたちも声を上げよう、とアピールされた。

そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっと増えるよう願おう、と呼びかけられた。

ミサ中の共同祈願は、スペイン語、韓国語、タガログ語、日本語、ベトナム語で行われ、様々な出身の信者たちが集う今日の日本のカトリック共同体の姿を象徴するものとなった。

ミサの終わりに、長崎大司教区の高見三明大司教が、教皇に挨拶を述べた。

この日、朝から午後にわたる長崎訪問を終えた教皇は、次の目的地、広島に空路で向かわれた。

長崎県営球場でのミサにおける、教皇フランシスコの説教全文は、以下のとおり
(カトリック中央協議会訳)

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教皇の日本司牧訪問
教皇の説教
王であるキリストの祭日のミサ
長崎県営球場(長崎ビックNスタジアム)
2019年11月24日、長崎

「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

 典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけられ、イエスが王だと気づき、そう宣言した犯罪人の声に、わたしたちも声を合わせます。栄光と勝利には程遠いそのときに、嘲笑と侮辱の声高な叫びの中で、あの盗人は声を上げ、信仰を宣言しました。それは、イエスが聞いた最後のことばであり、御父にご自分をゆだねる前、イエスは最後にいいました。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。盗人の後ろ暗い過去は、一瞬にして新たな意味を得たかのようです。すなわち、主の苦悶にしっかりと寄 り添い、いつでもどこにおいても救いを差し出すという主の生き方を確かめるものとしたのです。カルワリオ、それは無秩序と不正義の場、無力と無理解が相まみえ、罪なき者の死の前で、いつも茶化している者たちの、無関心で自己を正当化する、ささやきと陰口が響く場です。カルワリオ、この語は、この悔い改めた盗人の姿勢によって、全人類にとっての希望という語に変わるのです。苦しむ罪なき人への自分自身を救えというあざけりやわめき声は、決めぜりふにはならず、むしろ、歴史を作るまことの形として、心を動かされるに任せ、いつくしみによって決断する者たちの声を呼び起こすのです。

 今日ここで、わたしたちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人と同じく、わたしたちは 、失敗、罪、限界ばかりの人生をよく分かっています。けれどもそれが、わたしたちの現在と未来を既定し、決定づけるものであってほしくありません。わたしたちは、「自分自身を救ってみろ」という軽々しい無関心の声で、面倒を避ける空気に染まりがちなことを知っています。多くの罪なき者の苦しみを、ともに背負うことの大切さを忘れてしまうことも少なくありません。この国は、人間が手にしうる壊滅的な力を経験した数少ない国の一つです。ですからわたしたちは、悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間を生きたいのです。主の苦しみに寄り添い、その孤独と放棄を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父がわたしたち皆に届けようとするあのことばを聞きましょう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 救いと確信――。それは、聖パウロ三木と同志殉教者、そしてあなたがたの霊的遺産に刻まれた無数の殉教者、彼らがそのいのちをもって勇猛にあかししてきたものです。わたしたちは彼らの足跡に従い、その一歩一歩を同じように、勇気を携えて歩みたいと思います。十字架上のキリストから与えられ、渡され、約束された愛こそが、あらゆるたぐいの憎しみ、利己心、嘲笑、言い逃れを打ち破るのです。そこに、よい行動や選択を前にして身をすくませる、無意味な悲観主義や、感覚を鈍らせる物的豊かさに、ことごとく勝利する力があります。第二バチカン公会議は、そのことを思い出させてくれました。真理から遠いのは、この世には永遠の都はないといって、来る都を探し求めているつもりで地上での務めをないがしろにし、注意を怠る人です。まさに、告白する同じ信仰で、神に呼ばれた召し出しの崇高さを示し、それが透けて見えるほどにすべきなのです(第2バチカン 公会議『現代世界憲章』43参照)。

 わたしたちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、わたしたち皆をいのちの充満へと導いておられます。キリストは生きておられ、わたしたちに生きる者であってほしいと願っておられるのです。キリストはわたしたちの希望です(使徒的勧告『キリストは生きている』1参照)。わたしたちは毎日こう祈っています。主よ、み国が来ますように。こう祈りながら、自分の生活と活動が、賛美となるよう願っています。宣教する弟子としての使命が、来るべきものの証言者や使者となることならば、わたしたちは、悪や悪行に身を任せてはいられません。反対にその使命は、神の国のパン種になるよう駆り立てるのです。家庭、職場、社会、どこであれ、置かれた場所でパン種となるよう駆り立てるのです。聖霊が人々の間に希望の風として吹き続けるための、小さな通気口となることです。天の国は、わたしたち皆の共通の目的地です。それは、将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日からそれを生きるのです。病気や障害のある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。彼らは皆、わたしたちの王、キリストの生きる秘跡なのです(マタイ25・31-46参照)。なぜなら「もしわたしたちが本当にキリストの観想によって出発したのであれば、あのかたがご自分を重ねたいと望んだ人たちの顔に、あのかたの姿を見いださなければならない」(聖ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『新千年期の初めに』49)からです。

 あの日、カルワリオでは、多くの人が口を閉ざしていました。他の大勢は嘲笑し、盗人の声だけがそれに逆らい、苦しむ罪なきかたを擁護できたのです。それは、勇気ある信仰宣言です。わたしたち一人ひとりが決断することです。沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか。親愛なる兄弟姉妹の皆さん。長崎はその魂に、いやしがたい傷を負っています。その傷は、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしです。これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している第3次世界大戦によって、今日もなお苦しんでいます。今ここで、一つの祈りとして、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。

24 11月 2019, 10:44