8月に入り、教皇、一般謁見を再開
教皇フランシスコは、8月7日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われた。
一般謁見は、7月中の休止期間を経て、8月のこの第一水曜日に再開。今月はこの後、14日を除き、21日、28日に予定されている。
教皇はこの日、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、これまで継続してきた「使徒言行録」をテーマとする一連の考察に戻られた。
「使徒言行録」には、使徒たちが「不思議な業としるし」(2,43)を行ったことが記される。
これについて、教皇は、使徒たちが明確な言葉と共に人々に示したこれらの業やしるしは、キリストの名によって行われたものであり、キリストが、使徒たちを介して、「彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16,20)ものである、と話された。
「使徒言行録」に見られる、使徒たちの最初の癒しのエピソードは、神殿の門で行われた。
ペトロとヨハネが神殿に上って行くと、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。足の不自由なこの人は、神殿の境内に入る人に施しを乞うために、神殿の門のそばに置いてもらっていた。
教皇は、モーセの律法が、体に障害のある人が神に捧げ物をすることを禁じていたことを説明しつつ、神殿への立ち入りをも禁じられたこの足の不自由な人は、社会で疎外された多くの人たちを代表する存在である、と述べられた。
足の不自由な人は、境内に入ろうとする二人を見て施しを乞うたのに対し、ペトロは、ヨハネと共に彼をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と言った。教皇は、ペトロはこの人に対し、別の賜物を受けるために異なる見方で彼らを見るようにと招いた、と話された。
足の不自由な人が何かを期待し、彼らを見つめると、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っている物をあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3,6)と言い、右手を取ってこの人を立ち上がらせた。
教皇は、使徒たちが足の不自由な人との「関係」を築いたことを指摘。神は常に「関係」の中に、「現実の出会い」を通してご自身を表される、と述べられた。
物乞いをしていたこの人は、使徒たちと出会うことで、お金ではなく、救いの名、すなわち、ナザレの人イエス・キリストの名を見出した。
ペトロがイエスの名によってこの人を立ち上がらせる様子は、困難にある人から目をそむけず、その人を見つめることで意味ある関係を創り、壁ではなく友情と連帯の橋を築く、教会のあるべき姿を示している、と教皇は語られた。
ペトロとヨハネは真の豊かさとは復活の主との絆であることを教えている、と説く教皇は、「物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」という聖パウロの言葉(2コリント6,10)を引用。「福音、それがわたしたちのすべてです」と話された。
教皇は、カテケーシスに続き、巡礼者への挨拶で、8月9日に記念される十字架の聖テレサ・ベネディクタ、(エディット・シュタイン、おとめ殉教者、ヨーロッパの保護聖人)を思い起こされた。
そして、キリストへの真の回心において表された同聖女の勇気ある選択、あらゆる形の不寛容とイデオロギー的な邪悪との対極を生きたその恵みを見つめるよう、皆を招かれた。