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教皇フランシスコ、2019年7月14日、バチカンでの日曜正午の祈り 教皇フランシスコ、2019年7月14日、バチカンでの日曜正午の祈り  (AFP or licensors)

教皇「利己的な無関心に引きずられてはならない」日曜正午の集い

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、「善いサマリア人のたとえ」を観想された。

教皇フランシスコは、7月14日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

先月末から今月初めにかけてイタリア半島を覆った猛暑も一段落し、7月中旬のローマでは、比較的過ごしやすい気温が続いている。教皇との祈りの集いが行われたこの日曜日、バチカンの広場は、多くの巡礼者で活気づいた。

祈りに先立つ説教で、教皇は、この日の福音朗読箇所、「善いサマリア人のたとえ」(参照:ルカ10,25-37)を取り上げられた。

ある律法の専門家が「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」とイエスに尋ねると、イエスは律法の中に答えを見つけるよう招いた。

この人が「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とある」と答えると、イエスはそれを実行するようにと言った。

「では、わたしの隣人とは誰か」という、この律法の専門家のさらなる質問に対し、イエスが答えとして用いたものが、この「善いサマリア人のたとえ」である。

たとえの主人公であるサマリア人は、道の途中に、追いはぎに襲われ半殺しのままにおかれた人を見つけ、その人を介抱した。

教皇は、当時ユダヤ人は、サマリア人を選ばれた民とは異なる人々として蔑視していたが、イエスはあえてサマリア人を善い人物として登場させることで、その民族的・宗教的偏見を超えさせようとした、と説明された。

サマリア人が通ったのと同じ道を、先に祭司とレビ人も通ったが、この気の毒な人を見ても、止まらずに行ってしまった。

これについて教皇は、神に仕えるこの人たちは、おそらく血に触れることを避けたと思われるが、彼等は不浄を避けるという、宗教的慣習から来る人間的律法を、何よりもいつくしみを求める、神の偉大な掟に優先させてしまった、と話された。

このたとえを語った後、イエスは「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねることで、「わたしの隣人とは誰か」という律法の専門家の問いを、「追いはぎに襲われた人にとっての隣人とは誰か」という問いに逆転させていることを教皇は指摘。

イエスは、わたしたちが自分の基準で、誰が隣人で、誰がそうでないかを定義するのではなく、助けを必要としている人自身が、誰が隣人であるかを認めることができる、と教えている、と語られた。

追いはぎに襲われた人にとっての隣人とは、「その人を助けた人です」と律法の専門家が答えると、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた。

このたとえにおいて重要な鍵は、「憐みを感じることができるか」ということ、と教皇は説き、わたしたちは利己的な無関心に引きずられてはならない、と諭された。

憐みを持てるかどうかは、キリスト者の物差し、いわばイエスの教えの基準であると述べた教皇は、イエスご自身が御父のわたしたちに対する憐みそのものであることを、忘れないよう強調された。

14 7月 2019, 16:52