Cerca

Vatican News
教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2018年10月10日 教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2018年10月10日  (Vatican Media )

教皇「神が愛するすべての命を、軽視してはならない」一般謁見

教皇フランシスコは、十戒の「殺してはならない」という掟に、神の愛といのちの価値を示された。

教皇フランシスコは、バチカンで10月10日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はモーセの「十戒」の考察に戻りながら、第5戒「殺してはならない」(出エジプト20,13、申命記5,17)を考察された。

「殺してはならない」は、命の価値を守る掟

教皇の講話の前には、「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」という「知恵の書」(11, 24-26) の言葉が朗読された。

「殺してはならない」というこの第5の戒から、「十戒」の中でも、神との関係をめぐる前半の部分に対し、隣人との関係をめぐる後半の部分に入ったことを、教皇は指摘。

この簡潔で絶対的な掟は、人間関係における基本価値、すなわち命の価値を守る城壁としてそびえていると話された。

すべての悪は「命に対する侮べつ」

この世で行われるすべての悪は、「命に対する侮べつ」という言葉に要約できると教皇は述べ、戦争や、人を搾取する組織、投機目的の自然破壊、切り捨ての文化、利益のために人を服従させるシステム、人間の尊厳にふさわしくない生活をする数多くの人々の存在など、命の軽視の結果である様々な状況を挙げられた。

教皇は、母親の胎内における人命に対し、別の権利の名のもとに、その中絶を認めることは、矛盾したアプローチであると強調。

花開こうとしている、つぼみのような無垢で無防備な命を殺す行為が、どうして臨床上、社会的・人間的行為と言えるのか。一つの問題の解決のために、一人の人間の命を亡き者にすることが、正義にかなっているのか。それはまるで、問題をなくすために、刺客を雇うのと同じではないのか、と教皇は問いかけられた。

恐れから来る命の拒絶

命に対するこのような拒絶は、どこから発するのか、何を原因としているのか。教皇は、それは「恐れ」から生じると話された。

実際、他の存在を受け入れることは、個人主義に対する挑戦である、と教皇は述べ、例えば、生まれてくる子どもが重い障害を背負っている場合を考えられた。

このような場合、両親の苦しみは大変なものであると、教皇はその不安に理解を示された。

両親たちは、恐れを乗り越え、現実に立ち向かうために、真の寄り添いと、真の連帯を必要としているにも関わらず、多くの場合、妊娠を中絶するようにとの性急なアドバイスを受けることになる、と話された。

人生の真の物差しは「愛」の中にある

病気の子どもは、お年寄りや貧しい人のような、社会で助けを必要とするすべての人々と同様に、一つの「問題」として提起されるが、それは実際には、わたしたちを自己中心主義から外に引きずり出し、愛の中に成長させる、神の「恵み」であると教皇は説かれた。

人を命の拒絶に至らせるもの、それはお金や、権力、成功といった、この世の偶像、人生を測るための「間違った物差し」であると述べた教皇は、人生の「真の物差し」は、すべての命を愛される神と同じ「愛」の中にあると話された。

そして、教皇は、「殺してはならない」という戒に、「知恵の書」にあるごとく、神は「すべてをいとおしまれる」方であるという、ポジティブな意味を示された。

わたしたちを愛の喜びに開くキリスト

人となられた神の御子は、人間の拒絶された状態や、弱さ、貧しさ、苦しみを、ご自分の十字架の上に引き寄せられた。病気の子どもや、体力の衰えたお年寄り、絶望した移民、すべてのはかない脅かされた命の中で、キリストはわたしたちを探し、わたしたちの心を愛の喜びに開こうとしてくださる、と説かれた。

教皇は、すべての命を受け入れることには価値がある、なぜなら、すべての人はキリストの尊い血に値する(参照:1ペトロ1,18-19)からであると述べ、「神がこれほどまで愛された命を、侮べつすることはできない」と呼びかけられた。

また、教皇は、「殺してはならない」という掟は、自分たちの命にもあてはまることを指摘。若い人たちに「自分の命を軽んじてはいけない。神の業を拒んではならない。あなたは神の作品なのだ」と伝えなくてはならないと話された。

10 10月 2018, 16:36