「十字架という王座を選び、自らを与える神」教皇、日曜の集いで
教皇フランシスコは、バチカンで10月21日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。
祈りに先立つ説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、イエスが栄光を受ける時には自分たちをイエスの左右に座らせて欲しいと、弟子ヤコブとヨハネが師イエスに願い出る場面 (マルコ10,35-45)を取り上げられた。
教皇は、イエスはここでも大きな忍耐をもって、弟子たちをこの世のメンタリティーから、神のそれへと回心させようとしている、と話された。
イエスの最初の弟子たちであるヤコブとヨハネは、イエスとその御国への情熱に燃えていたが、彼らの熱心さはこの世の精神に染まっていた、と教皇は指摘。
そのため、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(同10, 38)と言われたが、特権を熱心に望むヤコブとヨハネは、「できます」(同10, 39)と答えるばかりであり、ここに至っても、彼らは自分たちの言っていることが分かっていなかった、と、その状況を説明された。
イエスのこの言葉は、ヤコブとヨハネも、他の弟子たちと同じく、その時が来れば、ご自身の十字架に加わることになるだろうという預言であったが、それは同時に「わたしに従い、犠牲における愛の道を学びなさい」という師の招きでもあったと教皇は述べた。
また、他の10人の弟子たちも、これを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたが、それは彼らも同様にこの世の精神に煩わされていることの証拠であった、と話された。
そこで、イエスは弟子たちに「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同10,42-44)と教えられた。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(同10,45)というイエスの言葉を教皇は観想。
地上の支配者たちがその権力のために「王座」を築く一方で、神は十字架という心地よくない王座を選び、自分の命を与えることで、その王国を治める、というイエスのメッセージをそこに示された。
「奉仕の道は、出世を渇望する病に最も有効な薬」と述べた教皇は、わたしたちがキリストの弟子として、この福音を受け入れ、貧しい人々に愛と単純さをもって奉仕できるようにと祈られた。