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聖ジョヴァンニ・バッティスタ・スカラブリーニ司教の肖像 2022年10月9日 バチカンでの列聖式 聖ジョヴァンニ・バッティスタ・スカラブリーニ司教の肖像 2022年10月9日 バチカンでの列聖式 

聖スカラブリーニ司教:移民の父、社会事象捉える司牧的眼差し

10月9日、列聖された聖ジョヴァンニ・バッティスタ・スカラブリーニ司教(イタリア1839−1905、ピアチェンツァ司教、聖カルロ宣教会・聖カルロ・ボロメオ宣教修道女会創立者)の人となりを紹介する。

 聖ジョヴァンニ・バッティスタ・スカラブリーニは、1839年7月8日、イタリア北部コモ県フィーノ・モルナスコにて、8人兄弟の第三子として誕生した。父親は葡萄酒販売業に携わり、母親は専業主婦であった。幼い頃から主任司祭の指導の下で司祭職への召し出しを育み、1857年、教区神学校に入学した。

 この神学校では、後に列聖された3歳年下の聖ルイジ・グアネッラと共に過ごすことになる。生来の才能に恵まれたスカラブリーニ神学生は、素晴らしい成績を納め、1863年5月30日、司祭に叙階された。

 宣教熱心な新司祭スカラブリーニは、司教にミラノ宣教会に入ることを願ったが、その許可を得ることはできなかった。司教はかえって新司祭を神学校の副院長および歴史とギリシャ語の教授に任命した。

 1867年、イタリア北部を襲ったコレラ流行の際、危険を顧みず、多くの患者の看病にあたり、後に政府からその功績を称える勲章を授与された。同年、神学校の院長に、また数年後、コモの工業地区の主任司祭に任命された。そこで彼は当時の社会問題と青少年教育に対する大きな関心を育むことになった。彼は子どもたちのためのカテキズムを記し、講演会や著作活動に専念した。彼の講演や著作は多くの人々の注目を浴び、1876年、わずか36歳で、ピアチェンツァ教区の司教に任じられた。

 29年にわたるピアチェンツァ司教としての在任中、スカラブリーニ司教は特に教区民たちとの直接の出会いや、司祭育成、教区改革、教理教育の推進、貧しい人々への援助などを中心に司牧活動に励んだ。364の小教区、その多くは山間部にあったが、これらをくまなく訪問し、信者たちとじかに触れ合う努力を重ねた。彼は日頃から、小教区訪問を最も大切な務めと呼んでいた。小教区訪問の折、スカラブリーニ司教はしばしば信者たちが貧しさゆえに他の土地への移住を強いられている現実に触れた。彼は米の収穫のためにロンバルディアやピエモンテにやって来る季節労働者のための支援事業を発案したほか、教会と社会の関わりについての考察を著した。

 1875年から1915年にかけて、900万人以上のイタリア人が海外移住の道を選び、最初の目的地として特にブラジルや、アルゼンチン、そしてアメリカ合衆国を目指して行った。スカラブリーニ司教は、この移民現象を社会問題として見るだけではなく、信仰上の司牧問題として捉えた。自国文化から遠く離れた地で、まったく見放された状況の中で貧しい生活を余儀なくされた多くの移民たちは、先祖伝来の信仰までも失うものが多かった。その事実に心を打たれた司教は、多くの講演や著作を通してこれらの問題への人々の関心を促すと同時に、組織的に何かの手を打つ必要を痛感していた。 

 移民たちのために働く司牧者の必要を強く感じた彼は、1887年、当時の福音宣教省に、特にアメリカ大陸におけるイタリア人移民に霊的な世話を行うための組織作りを提案した。同年11月15日、時の教皇レオ13世は、移民のための宣教師の組織を承認。そして、ピアチェンツァで同月28日、2人の司祭の賛同を得て、移民のための働きを目的とする「聖カルロ宣教会」が発足したのである。

 スカラブリーニ司教は、移民のための細やかな司牧のために宣教師だけではなく修道女たちの助けも必要だと感じ、1895年10月25日、「聖カルロ・ボロメオ宣教修道女会」を創立した。

 スカラブリーニ司教は、教皇レオ13世の勧めもあり、1901年にアメリカ合衆国、1904年には南アメリカを訪問した。

 ブラジルから帰国したスカラブリーニ司教は、以前から患っていた病が悪化し手術を受けたが、その甲斐もなく重篤な容態となり、1905年6月1日「主の昇天」の祝日、天の御父のもとに旅立った。                

09 10月 2022, 19:55