福者ピノ・プリージ神父(1937-1993)殉教から25年
ピノ(ジュゼッペ)・プリージ神父は、1937年9月15日、パレルモ市南東部のブランカッチョ地区に生まれた。
1953年、16歳でパレルモ大司教区の神学校に入り、1960年、司祭に叙階された。
ピノ神父は、パレルモ郊外のいくつかの教会で司牧経験を積むかたわら、児童養護施設の院長や、小神学校の副校長、カトリック・アクションや結婚講座の指導者などを務め、こうした中で特に青少年教育に対する情熱を養っていった。
パレルモ近郊のゴドラーノに主任司祭として赴いた8年間、ピノ神父は同地で続いた
マフィア間の流血の闘争に対し、福音の教えと愛徳の業を通し、和解と赦しを説き、争いの当事者たちを和解に至らせた。
1990年、ピノ神父は、生まれ育ったパレルモのブランカッチョ地区の聖ガエタノ教会に小教区司祭として戻ってきた。同地区は、当時、地元マフィアの一族の深い影響下にあった。
ピノ神父は、同地区で若者たちを一人ひとり、マフィアの影響から救い出し、法の下に生きる新しい文化と人間育成の推進に励み、就労機会の創造や尊厳ある生活の回復を通して、地区の健全化に寄与した。
ピノ神父は、教会で善の道をはっきりと説き、また「パードレ・ノストロ(われらが御父)」と名付けた施設を創設、貧しい子どもたちが集って学べる場とし、子どもたちを将来の貧困とマフィアの犠牲から救おうとした。
次第に、様々な形で、ピノ神父に対する脅迫が繰り返されるようになった。しかし、同神父は「暴力的な人々の言葉は怖くない。怖いのは正直な人たちの沈黙だ」と言った。
1993年9月15日、56歳の誕生日の夜、ピノ神父は自宅の前でピストルで後頭部を撃たれ殉教した。
犯人の供述によれば、ピノ神父は振り返りながら微笑んで、「待っていたよ」と言ったという。
ピノ・プリージ神父は、2013年に列福された。
教皇フランシスコは、福者ピノ・プリージ神父の殉教25年の日に、同地区を訪問し、祈りを捧げる。