「悲しみも成長の機会になり得る」教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、11月16日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「識別」をめぐるカテケーシスで、「なぜわたしたちは悲しんでいるのか」をテーマに講話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「識別」をめぐるこのカテケーシスでは、その時々の感情に左右されてあわてて決断しないために、自分の心の動きを読み取ることの大切さを見てきた。
その意味でわたしたちが「悲嘆」と呼んでいる精神的状態も、成長の機会になり得る。実際、多少の不満や、悲しみ、孤独に慣れる力、逃げずに自分と向き合う能力がなければ、わたしたちはいつも物事の表面だけに留まり、自己存在の中心に触れることがないからである。
悲しみは「魂を揺さぶり」、目覚めた、謙虚な状態にし、わたしたちを気まぐれな傾向から守ってくれる。それは人生また霊的生活における成長に欠かせない状態である。
悲しみは、感情上の慰めを期待して行動しないための、無償性への招きでもある。打ち砕かれた状態は、人を成長させ、与える・受け取るといった単なる交換関係ではない、主との、また親しい人々とのより成熟した素晴らしい関係を始めることを助けてくれる。
小さな子どもは親にいろいろなもの要求する。最も大きな贈り物とは、親たちの存在そのものであるが、それを理解するのは成長しながらである。
わたしたちの祈りも、こうした関係にやや似ている。わたしたちは祈りの中で主にいろいろなことを願うが、主そのものに対しては関心が欠け落ちていることがある。
福音書の中で、イエスはしばしば多くの人に囲まれている。しかし、それは人々がいやしや物的助けを求めたからであり、単にイエスと一緒にいたいからではなかった。イエスは群衆に揉まれていたにも関わらず、一人きりであった。ある聖人たち、また芸術家たちも、イエスと同じこの状況を観想している。
主に「お元気ですか」と尋ねるのは、おかしなことに思われるかもしれない。ところが、それはイエスの人間性とその苦しみ、孤独と共に、真の誠実な関係に入るための、非常に素晴らしい方法なのである。イエスはご自身のいのちをわたしたちと徹底的に分かち合うことを望まれた。
他の目的なしに、イエスと共にいることを学ぶのは、とてもよいことである。それはわたしたちが愛する人たちに対して望むことと同じである。わたしたちは愛する人々のことをもっとよく知りたいと願うが、それは彼らと一緒にいることが素晴らしいからである。
霊的生活とは、わたしたちに計画可能な「内的幸福」のテクニックではない。もし、それがわたしたちに計画できるものならば、そこに悲嘆はなく、わたしたちは判で押したように常に幸福で満足しているだろう。霊的生活、それは生きたキリストとの関係である。
祈る者は、祈りの結果を予想できない。聖書を読むことがいつも熱心さをもたらすのに、今日はなぜか何も感じないということもあれば、逆にできれば避けたい経験や出会い-たとえば十字架的な体験-などが思いがけない平和をもたらすことがある。
従って、困難を前にしても意気消沈することなく、神の恵みの助けをもって、その試練と向き合うことが大切である。もし心の中にわたしたちを祈りから引き離す声が聞こえたら、それは誘惑者の声である。このような時は、まさにその声が命じることと反対のことをしよう。