「主はお年寄りたちに奉仕の力を再び授ける」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、6月15日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
謁見中の「老年の意味と価値」をめぐるカテケーシスで、教皇は「マルコ福音書」のイエスがシモンのしゅうとめをいやす場面(マルコ1,29-31)を考察された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(マルコ1,29-31)
これは、シモン(のちのペトロ)のしゅうとめがイエスにいやされた時の、簡潔だが感動的なエピソードである。
「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」と福音記者マルコは記す。それが軽い不調によるものだったかどうかは知る由もないが、高齢者にとってはこうした発熱さえも危険でありうる。年を取ると自分の体が思うようにならず、できること、できないことの選択を学ばなくてはならない。体の声に耳を傾け、限界を受け入れる必要がある。わたしも今は、出かける時には杖を持たねばならない。
病気は、高齢者にとって、若かった頃とは違う重荷となる。年をとってからの病気は、寿命を縮めるかのように思われ、回復に対する不安も起こり、未来を希望をもって夢見ることが難しくなる。
しかし、この福音のエピソードは、わたしたちがそれを乗り越えることを助け、さらには最初の教えを授けてくれる。それは、イエスがシモンのしゅうとめを一人で訪ねたのではなく、弟子たちと共に訪ねた、ということである。
これは、まさにキリスト者たちは共同体をもって高齢者の世話をすべき、という教えである。お年寄りへの訪問は、多くの人々を交えて、しばしば行われるべきである。わたしたちはこの福音のエピソードを忘れてはならない。
今日、高齢者の数は著しく増加している。わたしたちは、孤独になりがちな高齢者を訪ね、これらのお年寄りのために主に祈る責任がある。イエスご自身がわたしたちにどのようにお年寄りたちを愛するべきかを教えてくださるだろう。
イエスは、シモンのしゅうとめを見ると、手を取って起こされ、こうして彼女はいやされた。イエスはこの優しい愛に満ちた態度をもって、病者に対する関心を通して救いを告げるということを弟子たちに教えた。
一方、シモンのしゅうとめの信仰は、彼女の上に身をかがめた神の優しさへの感謝のために輝いた。
最初の教えがイエスによって与えられたならば、第二の教えはシモンのしゅうとめによって示された。イエスに「手を取って起こされ」た後、「彼女は一同をもてなした」のである。
お年寄りたちも共同体に奉仕することができる。いや、奉仕しなければならない。高齢者が人々から距離を置く誘惑を断ち切り、奉仕に対する責任感を育み続けることは素晴らしいことである。主は、お年寄りたちを切り捨てることなく、むしろ彼らに奉仕する力を再び授けてくださる。
お年寄りたちが兄弟姉妹たちのために、いやし、なぐさめ、とりつぐ役割を保つことは、信仰に伴う感謝の最も純粋な証しと言える。高齢者たちが共同体生活の隅に押しやられることなく、皆の関心の中心に留められるならば、彼らは神への感謝という貴重な役割を果たすべく勇気づけられるだろう。
シモンのしゅうとめが示すように、神から受けた恵みに対するお年寄りの感謝は、共同体に共に生きることの喜びを取り戻させ、キリストの弟子たちの信仰に、あるべき本質的輪郭を与えるのである。