教皇「家庭の愛の召命を家族と分かち合おう」

「第10回世界家庭大会」の閉会前日、記念ミサがバチカンの聖ペトロ広場でとり行われた。

 6月25日(土)夕方、カトリック教会の「第10回世界家庭大会」の閉会を翌日に控え、大会記念ミサがバチカンの聖ペトロ広場で捧げられた。

 暑さを避けて、開始時間を遅らせてとり行われたこのミサには、世界各国やローマ教区の子ども連れの家族や夫婦たち、また家庭司牧に携わる教会関係者らが多く参加した。

 教皇フランシスコが特別車パパモービルで会場を一巡されると、家族らは各国の国旗を振り、笑顔と歓声で答えていた。

 ミサは、教皇庁いのち・信徒・家庭省長官ケビン・ジョゼフ・ファレル枢機卿によって司式され、教皇フランシスコによる説教が行われた。

 説教の中で教皇は、第一朗読の「列王記上」(19・16b,19-21)、第二朗読の「ガラテヤの信徒への手紙」(5・1,13-18)、そして福音朗読の「ルカによる福音書」(19・51-62)をそれぞれ観想しながら、キリスト者の家族の召命とは何かを示された。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5・1)。

 第二朗読の「ガラテヤの信徒への手紙」の中で、使徒聖パウロは、キリスト者にとっての自由を神の賜物としてこのように強調している。

 わたしたちは皆、内的・外的に多くの条件を持って生まれるが、特に自分を中心に据え、自身の利益のために動くエゴイズムの傾向を持っている。キリストはこの隷属からわたしたちを解放されたのである。

 ここで聖パウロは誤解を避けるために、神から与えられた自由は、「肉に罪を犯させる機会」(ガラテヤ5・13)とするための、偽りで虚しいこの世の自由ではない、と注意している。キリストがご自分の血の代価をもってわたしたちのために得てくださった自由は、「愛によって互いに仕えなさい」(同上)と使徒パウロが言うように、すべて愛へと向かうものである。

 自分の自由を自分自身のために使わず、神がわたしたちの隣に置いてくださった人々を愛するために使おう。「島」のように孤立して生きるのではなく、「互いに仕える」ためにわたしたちは召されている。家庭において自由を生きるとはこういうことである。惑星や衛星のように各自がそれぞれの軌道を回るのではなく、家庭とは出会い、分かち合い、受け入れ、寄り添い合う場所である。そして、何よりも愛することを学ぶ最初の場所である。

 家庭の素晴らしさを確認する一方で、わたしたちはそれを守らねばならない。家庭がエゴイズムや個人主義、無関心や切り捨ての文化に毒され、受け入れと奉仕のそのDNAを失わないように守る必要がある。

 第一朗読「列王記上」に記される、エリヤとエリシャの関係は、世代間の関係を想起させるものである。

 親たちは子たちが複雑で混乱した世の中で道を見失うのではないかと心配している。こうした不安を抱える親たちの中には、世に新たないのちを送り出す気持ちをなくす人々もいる。

 エリヤとエリシャの関係を考えてみよう。エリヤは試練にあい、未来を危ぶまれた時に、彼の後継者としてのエリシャに油を注ぐよう神から命じられた。神はエリヤに、この世は彼の代で終わらないと理解させ、彼の使命を他の者に受け継がせるよう命じたのである。

 エリヤが自分の外套をエリシャに投げかけると、その時からエリシャはイスラエルにおける預言者の使命を師エリヤから受け継ぐ者となった。このようにして、神は若きエリシャへの信頼を示されたのである。

 両親がこうした神のなさり方を観想することは、いかに大切だろうか。神は若者たちを愛されるが、だからといって彼らをあらゆるリスクや試練、苦しみから遠ざけることはない。神は心配性でも過保護でもない。むしろ、神は若者たちを信頼し、それぞれに合った生き方や使命へと招くのである。

 今日の福音朗読、「ルカによる福音」では、イエスの弟子となるための覚悟はどういうものかが記される。イエスにどこでも従うと言う人に対し、イエスは「人の子には枕する所もない」(ルカ9・58)と答えられた。イエスに従うとは、イエスと共に人生の様々な出来事を体験しながら、常に「旅の状態にある」ということである。

 結婚した皆さんにとって、それはいかに真実であることか。皆さんは、結婚して家庭を築くという召命に答えて、自分の「巣」を後にし、旅に出た。そして、その歩みは、新しい出来事や、予期しない状況に次々出会いながら、とどまるということがない。主と歩むということは、そういうものである。ダイナミックで予見しがたく、常に素晴らしい発見に満ちている。イエスの弟子にとっての休息は、毎日神の御旨を果たすことの中にあることを忘れてはならない。

 別の人は、イエスに従うにあたり、「まず、父を葬りに行かせてください」と言った。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と答えられた(参照ルカ9・59-60)。これは十戒の「あなたの父母を敬え」という掟を軽ろんじているのではなく、「わたしのほかに神があってはならない」という最初の掟、何にもまして神を愛せよ、という招きにまず従順であれということである。

 もう一人の「家族にいとまごいに行かせてください」と言った人に対しても、イエスは、たとえ家族に別れを告げたくとも、イエスに召された者は「後ろを顧みる」ことがあってはならないと答えている(参照ルカ9・61-62)。

 イエスは、結婚と家庭の召命に呼ばれた皆さんにも、後ろを振り返らず、前を見て進むよう願われている。そして、イエスはその歩みと愛と奉仕において、いつも皆さんの前を歩み導いておられる。イエスに従う者は決して失望することがない。

 皆さんが家庭の愛の道を決意のうちに歩み、すべての家族のメンバーとこの召命の喜びを分かち合うことができますように。皆さんが生きる愛が常に開かれたものとなり、人生で出会う最も弱い立場の人々、傷ついた人々に触れることができますように。

 教会は皆さんと共に、いや、むしろ教会は皆さんの中にある。教会はナザレの一つの家庭から生まれ、本質的に家族を成している。神が愛であり、いのちの交わりであることをすべての人に示しながら、皆さんがいつも一致と平和と喜びのうちに生きることができるよう、主の助けを祈ろう。

25 6月 2022, 22:11