バチカンでとり行われた列聖式 2022年5月15日 バチカンでとり行われた列聖式 2022年5月15日  (Vatican Media)

新聖人たちの生涯(その2)

2022年5月15日、バチカンでとり行われた列聖式で、新たに聖人として宣言された人々 [ 聖シャルル・ド・フーコー、聖マリー・リヴィエ、聖イエスのマリア・フランチェスカ、聖イエスのマリア・サントカナーレ、聖マリア・ドメニカ・マントバーニ ]を紹介する。

聖シャルル・ド・フーコー 
(1858-1916)

 聖シャルル・ド・フーコーは、1858年9月15日、フランスのストラスブールで誕生。6歳の時、両親を失い、姉と共に母方の祖父に預けられる。

  幼いシャルルは非常に聡明、好奇心旺盛で、早い時期から文学に対する優れた傾向を表し始める。しかし、当時流行の懐疑主義や実存主義の思想に染まり、信仰から離れ、世俗的な享楽に耽るようになっていった。

  1876年、士官学校に入学し、20歳の時には、早くも下士官としてアルジェリアに派遣された。自分が求めていたものとは異なる生活への不満から、絶えず欲求不満に陥っていた。

  熱心なイスラム教徒たちの信仰生活を見て、彼自身も次第に真理の探究に目覚めていった。そのような折、フベリン神父と出会い、彼の助けを通してキリスト教信仰を再発見することになった。1886年10月、フベリン神父を訪れ、彼からゆるしの秘跡を受け、聖体拝領をし、決定的な回心の恵みを受けた。

 完全に新しい生活を始めたシャルルは、聖体の秘跡と聖書に養われ、あまねく神の為に生きたいとの望みを強くしていった。フベリン神父の助けを受けつつ、シャルルは神に完全に身を捧げるために具体的に何をしたらよいのかを模索し始める。

  1888年から1889年にかけて、聖地を巡礼。特にイエスが歩まれたナザレの街中を歩きながら、イエスのナザレでの生活の神秘、だれからも知られず最も小さな存在として一回の労働者として生きたイエスの生活に深く打たれた。

 フランスに帰ると、ヴィヴィエの雪の聖母トラピスト修道院に入会する。その後、シリアのアクベス近くのトラピスト修道院に派遣され、7年間そこで生活するも、ナザレのイエスのように最も小さく最も貧しい一労働者としての生き方にあこがれ、1897年、トラピスト会総長の特別許可のもと、自分の理想に生きる機会を得た。

 彼は聖地に行き、ナザレで生きることとなった。1897年から1900年まで、ナザレのクララ会修道院の使用人として最も卑しい仕事もこなし、聖体の前で長時間福音書の黙想に励み、「イエスの小さい兄弟」として生きる道を探し続けた。

  周囲の勧めもあり、1901年6月9日、司祭叙階を受け、ナザレのイエスのように生きるという、それまで温めていた理想を実現するため、サハラ砂漠に赴き、その地の民族と共に、彼らの言葉や風習を習いながら、言葉ではなく、聖体の秘跡と実際の福音的生き方を通して神の愛を告知する努力を続けた。

 「ナザレのイエスのように沈黙の中に誰からも知られずに貧しく」を自らの召命として生きたシャルル神父は、十字架上ですべてを捧げ尽くしたイエスのように、1916年12月1日、強盗によってすべてを奪われ、殺害され、天の御父のもとに帰った。

 シャルルは正確には「創立者」とは言えないが、彼の理想に共鳴した多くの男女が、「イエスの小さい兄弟・姉妹」として、現在も日本を含む世界各国で、教会のため、神の民のために、その生涯を捧げている。

聖マリー・リヴィエ
(1768-1838)

 聖マリー・リヴィエは、1768年12月19日、フランスのモンペザ=ス=ボゾンで誕生。生後16か月の時ベッドから落ちて腰骨を痛め、それが以来身体的成長に大きな影響を及ぼし、長い間松葉杖の助けを必要とするようになった。

  母親は毎日マリーを当時モンペザ=ス=ボゾンの住民の信心を集めていたいつくしみの聖母の聖堂に連れて行き、長い時間、聖母像の前に留まっていた。幼いマリーも大きな信頼を込めて、健康になったら子どもたちの教育のために生涯を捧げたい、と聖母に誓っていた。しかし、松葉杖の助けを借りて何とか歩くことができるようになったものの、再び転び、今度はまったく動けなくなった。1777年8月15日に完治したマリーは、9歳の時にした約束を思い出し、最も小さな人々への奉仕に生涯を捧げる決意をした。彼女の献身的な奉仕を受けた人々は、まだ年若い彼女を「小さなお母さん」と呼び慕うのだった。

  12歳の時、姉と共に修道会運営の学校に送られ、優れた教育を受けた。学業を終えた時、修道院に入会を願ったが、虚弱体質を理由に受け入れられることはなかった。

  しかし、1786年、故郷のモンペザに彼女自身が小さな学校を開いた。生徒は日増しに増え、年若い教師は優れた教育者としての才能を発揮し、子どもたちの教育に献身した。マリーはフランシスコ会第三会、およびドミニコ会第三会員となり、特に小教区の若い女性たちの教育に努めると共に、しばしば病人たちを見舞い、必要に迫られた人々の援助に走った。

   フランス革命が勃発し、宗教に対する憎悪と迫害の期間、それまでの活動を中止せざるを得なくなった。その間、田舎に退き、これまで心に秘めていた計画の実現を待つことになった。スルピス会のポンタニエ神父と出会い、彼に前から抱いていた若い人々のための教育を目的とする新しい修道会を創立したいとの希望を打ち明けた。同神父の指導の下、数人の若い女性たちが彼女のまわりに集うようになった。1796年11月21日、聖母マリアの神殿奉献の祝日に、ヴィエンヌの司教代理の許可の下、他の4人の仲間と共に、「聖母マリアの御業を実行する」という約束をたてた。こうして、ここに「聖母奉献修道女会」が誕生したのである。

 1801年以降、新修道会は多くの司教たちの賛同を受け、召命も増え、1802年から1810年の間に46の修道院を持つに至った。修道女たちの活動は、若い女性たちの教育ばかりではなく、小教区の一般信徒の間でも熱心に行われ、主日のミサの参加やロザリオの祈りなどを勧め、多くの人々の信仰生活を助けた。

   1837年以降、マリー・リヴィエの健康は次第に衰え、以前のような働きはできなくなった。彼女は1838年2月3日、小さく貧しい人々、疎外された人々への愛に捧げられた、地上での生涯を閉じた。彼女が始めた「聖母奉献修道女会」の修道女たちは、今日、日本をはじめ、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、および南北アメリカの国々で、子どもたちや青少年、貧しい人々のために、創立者の精神と理想のもとに活躍している。


聖イエスのマリア・フランチェスカ
(1844-1904)

 聖イエスのマリア・フランチェスカ(アンナ・マリア・ルバット)は、1844年2月14日、北イタリア・ピエモンテ州のカルマニョーラで誕生。4歳の時に父親を、19歳で母親も失う。幼いころより神への愛に目覚め、家庭生活の中で信心深く育った。

 後にピエモンテ州の首都トリノに移り、一人の貴婦人に仕えるようになり、1864年から1882年までは、家計のすべてをまかされるようになった。その間、公教要理を子どもたちに教え、病人を訪問し、大都会の片隅で見捨てられている貧しい人々への愛徳の業に励んだ。

 1883年の夏、海辺の町ロアーノに滞在中、毎日訪れていた教会からの帰り道、工事現場から落下した石に頭を打たれた労働者を助け、その青年に帰りがけに2日分の労賃を渡し、家で療養するよう送り返した。その青年が働いていた建築中の建物は、若い女性たちの寄宿舎となるためのものであった。この事業の責任者、カプチン会のアンジェロ・マルティーニ神父は、アンナ・マリアこそ、この事業の指導者に適任であると見抜き、その計画を彼女に伝えた。神父の提案に驚きはしたものの、申し出を受け入れ、祈りとキリスト教的愛徳の業に専念する生活を開始した。

 こうして霊的指導者の指導の下で、進むべき道をめぐり真剣な識別が始まった。長い祈りと熟慮の末、当時トリノで青少年たちのための使徒職に従事していたドン・ボスコの勧めもあり、アンナ・マリアは新たな女子修道会創立に踏み切った。カプチン第三会女子修道会の誕生である。1885年1月23日、5人の女性が正式に共同生活を始め、教会と信者たちへの奉仕の生活を開始した。

 アンナ・マリアは、修道院ではイエスのマリア・フランチェスカと名のり、最初の修院長となった。修道会創立から3年の内に、多くの都市からの要請で、いくつもの修道院が開かれた。1892年、南米ウルグアイに最初の宣教女を送り出し、その後まもなくアルゼンチンとブラジルにも修道女を派遣。彼女自身、南米を何回も訪問した。

 1899年、ブラジル北部に会員たちを派遣したが、到着から18カ月後の1901年3月13日、派遣された7名の修道女全員と、4人のカプチン会宣教師、2名の第三会員、そして240人の信者たちが先住民によって殺害されるという悲劇に見舞われた。この事件はマリア・フランチェスカの心に非常に重い衝撃を与えた。しかし、彼女は苦しみを負いながらも、主への奉仕のために、修道女たちを励まし導き続けた。

 1902年、ウルグアイのモンテビデオを訪問するためジェノバから旅立った。数週間の訪問予定であったが、現地滞在は2年の長きに及んだ。モンテビデオ滞在中の1904年8月6日、キリストへの愛、福音に対する忠実な証し、教会と最も貧しい人々への奉仕の模範を残し、天の御父のもとに召された。


聖イエスのマリア・サントカナーレ
(1852-1923)

 聖イエスのマリア・サントカナーレ(カロリーナ・サントカナーレ)は、1852年10月2日、イタリア・シチリア島パレルモの裕福な家庭で誕生した。母親から非常に篤い宗教教育を受けたことは、彼女の生涯に深い影響を残した。

 当時の裕福な家庭の習慣に沿って、幼少時より家庭教師から教えを受け、いわゆる一般の学校教育は受けていない。高度な人文教育や芸術・音楽、またフランス語をも習得した。19歳の時、両親に修道女になりたいという希望を表明。しかし、別の計画を抱く父親の反対にあい、実現することはなかった。

 やがて、パレルモの小教区に創立された若い女性たちの信心会の指導を主任司祭から任された彼女は、15年にわたりその任務をこの上なく誠実に果たした。

 この頃、祖父母の世話のためにしばしば訪れていたシチリア島チニジで、教養と敬虔さに満ちたマウロ・ベヌーティ神父と出会い、その霊的指導を受けるようになった。

 若き頃より観想修道会に入ることを望んでいた彼女であったが、生活の中で多くの貧しい人々や子どもたちの現状に触れ、これらの人々を具体的に助けるために、観想生活をあきらめ、実際の愛徳事業に専念することになった。孤児や、幼児、少女たちの世話や宗教・一般教育に尽くした。 

 次第に彼女に従う女性たちが集まり、ベヌーテイ神父の勧めもあり、聖フランシスコの霊性に基づく修道会「ルルドの聖母カプチン修道女会」を創立することになった。1884年、ベヌーティ神父のもとで誓願を立て、イエスのマリア修道女となった。

 その後、肉体的・精神的な多くの苦しみを体験し、すべてを驚くべき忍耐とキリスト教的特により耐え忍んだ彼女は、1923年1月27日、イエス・マリア・ヨゼフのみ名を唱えつつ天に召された。


聖マリア・ドメニカ・マントバーニ
(1862-1934)

 聖マリア・ドメニカ・マントバーニは、1862年11月12日、イタリア北部ヴェローナ県カステレット・ディ・ブレンツォーネにて、貧しいながらも敬虔な家庭に生まれた。

 小学校を優秀な成績で卒業するも、家庭の貧しさから上級学校への進学はかなわなかった。しかし、天性の素質と実質的な能力によって、まわりから優れた人格者と認められるようになった。幼少時から、祈りと神についての関心の強さを表していた。特に公教要理と家庭での教育が彼女の宗教的人格形成の基礎となっていた。

 30歳になるまで、ほとんど家庭内で過ごしたが、すでに少女期から同年配の少女たちへの手本によって、将来の使徒職への献身への傾向を示していた。

 彼女が15歳の時、福者ヨゼフ・ナシンベーニ神父がカステレットに赴任。彼の指導のもと、小教区の宗教活動における寛大で強力な協力者となる。彼女の模範的な生活のため、ほどなくして同郷の人々の尊敬を受け、誰もが彼女の言葉に喜んで耳を傾けるようなった。彼女は特に子どもたちへの公教要理の教え、また貧しい人々や病者への福音的愛による奉仕に励んだ。

 マリアの娘信心会に入会し、会の規則や精神に忠実に沿った生活を通し会員たちに模範を示し、その具体的な生活をもって多くの人々をひき付けた。

 特に無原罪の聖母への信心が篤かった彼女は、1886年12月8日聖母の大祝日に、ナシンベーニ神父のもとで、生涯を神に捧げる誓願を宣立した。聖母マリアに対する信心、キリストとの内的親しさ、聖家族の観想は、彼女の生涯にわたる霊魂の糧であり、また機動力ともなっていた。

 神にすべてを捧げる希望に常に燃えていた彼女は、ナシンベーニ神父を通して神のご計画を知ることになる。ナシンベーニ神父は1892年11月6日「聖家族修道女会」創立にあたって彼女を共創立者として希望した。この要望を受け入れた彼女は、新しく生まれたばかりの聖家族修道女会共創立者、および初代総長となった。

 教会活動と新修道会の指導において、彼女は創立者ナシンベーニ神父の貴重な協力者として任務を忠実に果たした。

 創立者ナシンベーニ神父の精神を後続の修道女たちに忠実に伝える努力を惜しむことなく、会の発展に寄与し、その死の前に、会員数1200人、修道院数150の修道女会として聖座による最終的認可にまでこぎつけた。

 多くのキリスト教的徳の模範を示しながら、とりわけ謙遜の徳に秀でたマリア・ドメニカ・マントバーニは、数日間の病苦の後、1934年2月2日、天の御父のもとに帰った。

15 5月 2022, 21:32