イエスの洗礼を観想、教皇による日曜正午の祈り
教皇フランシスコは、バチカンで1月13日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。
「主の洗礼」を祝ったこの日、教皇は祈りの前の説教で、ヨルダン川でのイエスの洗礼を、ルカ福音書(3,15-16、21-22)を通して観想された。
教皇は、まずイエスの洗礼における民衆の存在に注目。イエスの洗礼の場面で、民衆の存在は単なる背景ではなく、この出来事の本質の一つをなしていると述べられた。
「イエスは水に浸かる前に、民衆の群れに浸かり、人々と一致しながら、罪以外の、人間の条件をすべて引き受けられた。」
「ヨハネのもとで、回心を願うご自分の民と共に洗礼を受けたイエスは、こうしてご自身の使命のあり方と意味を表された。それゆえにイエスの洗礼は、一つのご公現である。」
教皇はこのように語られた。
また、教皇は、イエスは、ヨハネに洗礼を願い出る人々と共にいることで、人間の内面からの深い回心の願いをも分かち合われた、と話した。
「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」(同3,22)ことは、イエスと共に、新しい世界、イエスを人生の中に受け入れる人々も参加する「新しい創造」が始まったことのしるしである、と教皇は説かれた。
「洗礼において、キリストと共に再び生まれたわたしたち一人ひとりにも、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という御父の言葉が向けられている」と述べた教皇は、「洗礼の日に、一つの炎として心に灯された御父の愛を、わたしたちは祈りと慈愛の業をもって育まなくてはならない」と話された。
さらに、教皇は、イエスが群衆に混じり、洗礼の水に浸かった後、「祈り」の中に、すなわち御父との交わりの中に、自らを沈めている点を指摘。
御父の愛を人々に表すために遣わされたイエスの公生活とその使命は、御父と聖霊との常なる一致によって完成された、と述べられた。
教皇は、教会やわたしたち一人ひとりもまた、その使命がより忠実で実り多いものであるために、常にイエスに「浸かる」よう招かれている、と説かれた。