主の公現:教皇「東方の博士たちのように、心をイエスに開こう」
カトリック教会の暦は、1月6日、「主の公現」(エピファニア)の祭日を迎えた。
「主の公現」とは、神の御子イエス・キリストが、公に人々の前に姿を現されたことを意味し、異邦人である東方三博士の訪問に代表されるように、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを記念する。
教皇フランシスコは、同日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「主の公現」を祝うミサを捧げられた。
そして、正午には、聖ペトロ広場に集う信者らと「お告げの祈り」を唱えられた。
このところ厳しい寒波に見舞われたローマも、この日曜日は気温もやや上がり、日差しの穏やかな一日となった。
バチカン前の大通りでは、この日の伝統となっている、馬上の東方三博士や、羊飼いなど、聖書の登場人物などに扮した人々の行列が行われ、市民や巡礼者の目を楽しませた。
教皇は祈りの集いの説教で、イエスの「公現」を、「光」によって象徴されるものとして観想。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたのうえに輝く」と、「イザヤ書」(60,1)にあるように、旧約の預言書の中で、この光は「約束」であった、と話された。
教皇は、重い捕囚と虐政を体験した直後のイスラエルの民に、イザヤが投げかけるこの招きは驚くべきものに思われる、と語られた。
「今日、この招きは、イエスの降誕を祝ったわたしたちにも響き、ベツレヘムから届く光をわたしたちも受け入れるようにと励ましています。」
「わたしたちも、この出来事の表面的なしるしだけに留まることなく、ここから再び出発し、わたしたちの人間としての、またキリスト者としての、新しい歩みを始めなくてはなりません。」
教皇はこのように語られた。
預言者イザヤが告げた「光」とは、福音の中では、「現存し、公にされた存在」、すなわち、ダビデの町、ベツレヘムに生まれ、すべての人に救いをもたらすために来られた、イエスのことである、と教皇は述べた。
教皇は、マタイ福音書は、キリストと出会う可能性を持った人々の様々な反応を記していると指摘。
ヘロデは権力を失うことを恐れたために、律法学者たちや民の長たちは自らの確信を超えるものを見る力がなかったために、幼子に会うことを拒んだ。
それに対し、伝統的なユダヤ教信仰からは遠い世界にあるすべての民を代表する、東方博士たちは、メシアの真理を求め、星を追い、危険をも顧みず、長い旅に出た、と教皇は語った。
教皇は、これらの博士たちは、「人となられた神」という歴史上最も偉大で驚くべき知らせに心を開くことのできた人たちであると共に、主を求めて辛抱強く歩み、イエスに贈り物を差し出す寛大さを持った人たちであった、と述べた。
教皇は、東方の博士たちが幼子と出会った後、「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」(マタイ2,12)ことを示しつつ、博士たちは謙遜で貧しい王の神秘を胸に国に帰り、キリストにおいて神から与えられた救いを皆に告げたことだろう、と話された。
恐れのために心を閉ざすことなく、この温和で目立たない光に勇気をもって心を開くならば、わたしたちもまた、東方の博士たちのように「喜びにあふれ」(参照:マタイ2,10)、その喜びを自分たちだけのものにすることはないだろう、と教皇は語られた。