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教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

一般謁見:教皇「神が聞かない叫びはない」

教皇レオ14世は、6月11日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、6月11日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。

 この謁見で教皇は「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスにおいて、イエスによる「いやし」に触れられた。

 そして、イエスが「盲人バルティマイをいやす」エピソード(マルコ10,40-52)を取り上げ、講話を行われた。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今回のカテケーシスでは、イエスの生涯のもうひとつの本質的な側面、すなわち「いやし」に目を向けたいと思います。それゆえ、キリストの聖心の前に、皆さんの最も痛みを伴う部分、もろい部分、人生の行き詰まり、膠着した部分を差し出すようにお勧めします。そして、わたしたちの叫びに耳を傾け、いやしてくださいと、主に信頼をもって願いましょう。

 今日の考察に登場する人物は、わたしたちが困難な状況から抜け出せないでいる時でさえも、決して希望を失ってはならないと教えてくれます。ここでお話しするバルティマイは、イエスがエリコで出会った、目の不自由な、物乞いをしている人です(参照 マルコ10,40-52)。出会いの場所は象徴的です。イエスはエルサレムに向かうために、海面より低い町エリコから出発されました。実際、イエスは、ご自身の死を通して、わたしたち一人ひとりを象徴する存在である、深淵に落ちたアダムを迎えに行かれました。

 バルティマイは、「ティマイの子」という意味です。その名は彼が持つ一つの関係を表わしているものの、それにしても彼はあまりにも孤独でした。一方で、この名前は「名誉の子」あるいは「賛美の子」といった意味にも取ることができます。しかし、それは彼が実際に置かれた状況とは正反対のものでした。ユダヤ教の文化において、名前は非常に大切ですが、バルティマイは自分が本来あるべき姿を生きることができずにいたのです。

 イエスについて歩む群衆の大きな動きとは反対に、バルティマイは静止しています。福音記者によれば、バルティマイは道端に座っていました。つまり、彼を立ち上がらせ、再び歩ませるには、誰かの助けが必要でした。

 自分が行き止まりの状況に立たされた時、どうしたらよいでしょうか。バルティマイは、自分に備わった、そして自身の一部である素質に訴えることを教えてくれます。バルティマイは物乞いです。彼には頼むどころか、叫ぶことさえできました。心底何かを欲する時、人から叱られようが、軽蔑されようが、放っておくように言われようが、何が何でもそれを得ようとするでしょう。それが本当に欲しいならば、叫び続けなくてはなりません。

 マルコ福音書に記された「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10,47)というバルティマイの叫びは、東方の伝統の中で非常に知られた祈りになりました。わたしたちもまたその祈りを唱えることができます。「主、イエス・キリスト、神の子よ、罪人なるわたしを憐れんでください」

 バルティマイは目が不自由でした。それにも関わらず、彼の目は他の人々よりしっかりと見えていました。彼はイエスを認めることができたからです。バルティマイの叫びを前に、イエスは立ち止まり、彼を呼んでくるようにと言われました(参照 同10,49)。なぜなら神がお聞きにならない叫びはないからです。たとえ、自分たちの叫びが神に向けられているという自覚がない時もです(参照 出エジプト記2,23)。

 目の不自由な人を前にして、イエスがすぐにそこに行かなかったことは不思議に見えるかもしれません。しかし、考えてみると、それはバルティマイの人生を再びよみがえらせる方法だったのです。イエスはバルティマイに再び立ち上がるように促し、彼が再び歩み出せるものと信頼を寄せられました。バルティマイは立ち直りました。死の淵から再び立ち上がることができたのです。しかし、そのためには、彼は非常に象徴的ともいえる行為をしなければならなかったのです。すなわち、彼は上着を脱ぎ捨てなければなりませんでした(参照 同10,50)。

 物乞いにとって、上着はすべてでした。それは安心を与えるものであり、家であり、自分の身を守るものでした。律法は、物乞いの上着を守り、それを質にとる場合には、日没までに返すようにとまで定めていました(参照 出エジプト記22,25)。しかしながら、しばしばわたしたちを妨げるのは、見せかけの安心だったりします。自分を守るためにまとったものが、むしろ歩くことの邪魔になったりするのです。イエスのところへ行き、いやされるためには、バルティマイは自己の弱さをすべてさらけ出さねばなりませんでした。これは、いやしの歩みにおける欠かせない過程なのです。

 イエスのバルティマイに対する、「何をしてほしいのか」(参照 マルコ10,51)という問いも不思議に思われます。しかし、必ずしもわたしたちが自分の病からいやされたいと願うとは限りません。責任を持たされないように、そのままでいることを好むこともあるのです。

 バルティマイの答えは意味深いものです。ここでは「anablepein」という動詞が使われています。それは「再び見る」という意味のほかに、「眼差しを上げる」という意味にも取ることができます。事実、バルティマイは再び見えるようになりたかっただけではなく、自分の尊厳をも取り戻したかったのです。眼差しを上げるには、頭を上げなくてはなりません。人が時に行き詰まることがあるのは、人生で味わった屈辱ゆえに、自分の価値を取り戻すことだけを願うためです。

 バルティマイを、またわたしたち一人ひとりを救ったのは、信仰です。イエスがわたしたちをいやしてくださるのは、わたしたちが自由になるためです。イエスはバルティマイにご自分に従うようにとは言わず、「行きなさい、再び歩き出しなさい」(参照 マルコ10,52)と言われます。しかし、福音記者マルコは、バルティマイはイエスに従ったと記しています。彼は「道」であるお方に自由に従ったのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、信頼を持ってイエスの御前にわたしたちの、またわたしたちの愛する人々の病を差し出しましょう。道を見失い、行き詰った人々の痛みをイエスの御前に運びましょう。彼らのためにも叫びましょう。主は必ずわたしたちの叫びを聞かれ、立ち止まってくださるでしょう。

11 6月 2025, 17:47

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