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教皇「日常の中を通るカルワリオの道」を観想、十字架の道行

聖金曜日の夜、ローマ市内のコロッセオで、キリストの受難から死への歩みを共にたどり、黙想し、祈る信心業、「十字架の道行」がとり行われた。

 キリストの受難と死を記念する「聖金曜日」4月18日夜、ローマ市内のコロッセオで、十字架の道行がとり行われた。

 十字架の道行きは、イエスの死刑宣告から、十字架上の死、埋葬までの過程を、14場面(留)に分け、その歩みを共にしながら、黙想と祈りのうちに行う信心業。

 ローマにおける聖金曜日の伝統行事であるこのコロッセオでの十字架の道行には、毎年参加者の黙想を助けるためのテキストが用意される。聖年準備の「祈りの年」であった昨年に続き、聖年を迎えた今年2025年のテキストは、教皇フランシスコご自身によって用意された。

 一方、この十字架の道行の司式は、現在バチカンで療養中の教皇に代わり、ローマ教区における教皇代理司教バルダッサーレ・レイナ枢機卿が受け持った。

 十字架の道行の各場面では、ローマ教区を代表する、若者や、家族、ボランティア、修道者らが十字架を掲げて歩み、コロッセオ周辺の遺跡地帯に集ったおよそ2万人の信者らと、イエスの受難の道を共に黙想しながらたどった。

 教皇は黙想への導入でこう記している。
 「カルワリオの道は、わたしたちの日常の真ん中を通っています。主よ、わたしたたちはいつもあなたと反対の方向に進みながら、あなたの御顔と出会い、あなたと眼差しを交わすのです。[…]あなたの眼差しはわたしたちの心をご覧になります。すると、わたしたちは、何事もなかったかのように行き過ぎることをためらうのです。わたしたちは振り返り、あなたを見て、あなたについて行こうと、あなたの道に加わり、方向を変えるべきだと、気づくことができるのです
 「十字架の道行は、動く者の祈りです。わたしたちを慣れきった歩みから立ち止まらせ、疲れから喜びへと向かわせます。」

 たとえば、教皇は、第2留「イエス、十字架を負う」で、「あなたはそれを探し求めずとも、十字架がご自分に向かってくるのを感じておられました。あなたがそれを受け入れたのは、負担以上に、責任を感じたからでしょう」
 「イエスよ、あなたの十字架の道は、上り坂だけではありません。それは、あなたが愛した人たちに向かって、神が愛する世界に向かって、あなたが下る道でもあるのです」と観想。

 また、第5留「イエス、キレネのシモンの助けを受ける」では、「シモンは仕事から帰ったところでしたが、死刑囚の十字架を負わされました。たとえそれに適した体格だったとしても、彼が持っていた方向性、計画は全く別でした。わたしたちは時にこうして神と出会うのです」、「イエスよ、あなたは、大地を耕し、再び種を蒔くために、わたしたちを    ご自分の仕事に関与させることを愛されます。[…]わたしたちは時々誰かに立ち止まらされ、背負うべき何らかの現実を肩に乗せてもらう必要があります」、「こうして十字架の道に新しいエルサレムが立ち上がります。わたしたちもキレネのシモンのように、道を変え、あなたと共に働くのです」と教皇は書いている。

 第7留「イエス、再び倒れる」で教皇は、「転んで、立ち上がり、転んで、再び立ち上がる。イエスよ、こうしてあなたはわたしたちに人間の人生の冒険を読み取ることを教えられました」、「イエスよ、あなたは喜びの主です。迷子になった一匹の羊のように、わたしたちは皆、あなたによって見つけられ、家に連れ戻されます。非人間的とは、九十九匹が一匹より価値がある経済です。しかし、われわれがこのように機能する世界を築いたのです。それは計算とアルゴリズムの世界、冷たい論理と冷酷な利害の世界です。主よ、あなたの家の掟、神の経済は違います。転んで立ち上がるあなたの方に向きなおることは、航路を変更し、歩みを変えることです。軌道修正であり、気分転換である。回心が喜びを回復させ、わたしたちを家に連れ戻すのです」と述べている。

 そして教皇は、第14留「イエス、墓に葬られる」に続く終わりの祈りで、アッシジの聖フランシスコの言葉をもって、回心の賜物を祈り求めている。

 いと高き栄光に満ちた神よ
 わたしの心の闇を照らしてください。
 まっすぐな信仰を、
 確かな希望を
 完全なる愛を
 深い謙遜を
 お与えください。
 主よ、理解と識別をお与えください。
 こうしてあなたのまことの聖なる御旨を果たすことができますように。

18 4月 2025, 23:51