検索

教皇フランシスコ 2023年5月31日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2023年5月31日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 

尊者マテオ・リッチ:中国における対話と友愛の道、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、5月31日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、5月31日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見を行われた。

 教皇はこの日、謁見中の「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をめぐるカテケーシスで、16世紀末から17世紀初頭の中国に宣教師として渡り、東西の対話を深めたイエズス会士、尊者マテオ・リッチ神父を取り上げられた。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

**********

 今日は使徒的熱意の偉大な模範として、中国へ渡った宣教師マテオ・リッチを紹介したい。

 マテオ・リッチ神父はイタリア・マルケ州のマチェラータに生まれた。イエズス会の学校で学び、彼自身もイエズス会士となった。宣教師たちの報告書に感動し、他の若い会員たちのように、極東の宣教に派遣されることを願った。

 聖フランシスコ・ザビエルの挑戦に続き、他の25名のイエズス会士たちが中国に入ることを試みたが結果は虚しかった。しかし、リッチともう一人の仲間の会員は、念入りに準備を進めた。中国の言葉や習慣をじっくりと勉強し、とうとう中国の南部に拠点を定めた。北京に到着するまでは、4つの都市に移り住みながら、18年を要した。こつこつとした忍耐と、堅固な信仰をもって、マテオ・リッチは、困難や危険、不信や反対を乗り越えることができた。

 マテオ・リッチ神父は、出会うすべての人々と対話と友愛の道をとり、その態度は福音宣教のために多くの扉を開いた。同神父の最初の中国語による著作はまさに『交友論』と題された友情関係を扱ったものであった。

 同神父は、最初の頃、中国の文化と生活に溶け込むために仏教の僧服を身に着けていたが、やがて学者の生活様式と身なりをとることが最良の道であると理解した。彼は中国の古典を深く研究し、儒教の叡智や中国社会の習慣やしきたりと共に、前向きな対話を通して、キリスト教を紹介しようとした。キリスト教の教父たちがギリシャ文明と対話したように、マテオ・リッチは、対話を通したキリスト教のインカルチュレーションを目指した。

 彼の科学における教養は、中国の知識人たちの関心と称賛を引き起こした。様々な大陸を含む世界地図は、まだ知られていなかった中国の外の世界を人々に示すことになった。また、リッチや彼に続く宣教師たちの数学や天文学の知識は、東西の文化と科学の豊かな出会いに貢献した。

 しかしながら、リッチ神父の学者としての名声は、彼のすべての努力の根底にある福音宣教を曇らせることはなかった。学術的対話を通して得た信頼は、キリスト教の真理と信仰を紹介する権威を彼に与えた。教理だけでなく、同神父の宗教生活の証しや、愛徳、祈り、慈愛、謙遜、栄誉に対する無関心は、彼の多くの弟子や友人たちをカトリック信仰に導くことになった。

 マテオ・リッチ神父の生涯の最後の日々は、使徒パウロがフィリピの信徒への手紙(1,22-24)に記したのと同様に、この世を去ってキリストと共にいたいとの願いと、自分がいなくなることで人々に与える悲しみと神のためにまだ果たすべき奉仕への思いの両方を抱いていたようであった。

 マテオ・リッチは、1610年、57歳で北京において亡くなった。すべてを宣教のために捧げた生涯であった。彼の宣教精神、また中国の人々への愛は模範をなすものである。彼が偉大なのは、優秀な学者であったからではなく、その勇気と、召命への言動一致、キリストに従おうとの熱意のためであった。

 

31 5月 2023, 15:47

最新の謁見

すべて読む >