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教皇フランシスコ 教皇フランシスコ  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

教皇「教会は選ばれた人のものではない」

教皇フランシスコは、スイス放送協会のイタリア語放送のインタビューに答えられた。

 教皇フランシスコは、スイス放送協会のイタリア語放送(RSI)のためにインタビューを受けられた。

 教皇の住まいがあるバチカンのサンタ・マルタ館において、ジャーナリスト、パウロ・ロダーリ氏によって行われたこのインタビューは、3月13日(月)に迎える教皇フランシスコの選出10周年を前に、現地時間12日(日)夜、RSIの LA 1チャンネルで放送される。

 このインタビューで、教皇は、様々な質問に答えている。

 たとえば、「この10年間でご自分がどれだけ変わったと思われるか」という問いに「歳を取った。以前より体力がなくなった。膝(の痛み)は、今は回復しつつあるが、肉体的な屈辱だった」と話した。

 「多くの人があなたを貧しい人たちの教皇と表現するが、そのようにご自分も感じているか」との質問には、教皇は「切り捨てられた人々を優先することは確かだが、だからと言って他の人々を切り捨てたりはしない。イエスは貧しい人々を特に愛された。しかし、イエスは豊かな人々を追い出したわけではない」と答えられている。

 「イエスはご自分の食卓に誰でも連れてくるようにと言われるが、これはどういう意味か」と問われた教皇は、「それは誰一人除外されないということだ。(マタイ福音書22章、イエスの「婚宴」のたとえにおいて、王が王子のために催した)婚宴に誰も来なかった時、(王は家来たちに)町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてくるようにと言った。それは病者、義人、悪人、子ども、大人、金持ち、貧しい人、すべてに対してだ。教会は、誰か選ばれた人のものではない、ということを忘れてはならない。神の聖なる忠実な民とは、すべての人である」と語った。

 「ほとんど地の果てからやってきた教皇は何をもたらすのか」。教皇はこれに対し、「アルゼンチンの哲学者、アメリア・ポデッティが書いたことを思い出す。現実は、中心より、一番端から見た方がよく見えると。普遍性は、遠くからこそ理解できる。それは、社会的、哲学的、政治的な本質だ」と述べた。

 「(バチカンの)マーテル・エクレジエ修道院でのベネディクト16世の10年はどういうものだったか」という問いをめぐり、教皇は「立派な人、神の人だ。彼を大変愛している。最後に会ったのは、降誕祭のためだった。(名誉教皇は)ほとんど話すのが困難で、非常に小さな小さな声で話していた。その言葉を訳す必要があったほどだ。彼は非常に明晰だった。これはどのような状況か、あの問題はどうなったか、と問いかけていた。すべてにおいて新しい情報に接していた。彼と話すことは、非常に気持ちの良いことだった。わたしは彼に意見を聞き、彼は自分の意見を述べていた。しかし、それはいつもバランスの取れた、ポジティブなものだった。彼は思慮深い人だった。しかし、最後に会った時は(彼の人生の)終わりにあることがわかった」と振り返った。

 「ベネディクト16世は退位への道を開いたが、あなたはこれについて、可能性はあるが、今のところは考えていないと言われる。将来、何がご自分に退位をもたらすかもしれないと思うか」。これについて教皇は「物事をはっきりと見極められないような疲労、物事に対する明解さ、状況判断力の欠如によるだろう。あるいは、身体上の問題かもしれない」と話す。そして続ける。「これについてわたしは問い、助言に従う。わたしをよく知る人々や、幾人かの聡明な枢機卿たちに、どんな状況か?わたしが…するべきに見えるか、と聞く。すると彼らは言う、大丈夫だ、続けるようにと。しかし、お願いだ、間に合うように叫んで欲しい。」

 教皇は、「あなたは挨拶する時、自分のために祈って欲しい、と皆に願うが、それはなぜか?」と聞かれ、それに答えている。「皆が祈っていることを確信している。信者でない人にはこう言う。わたしのために祈ってください、祈らないならば、良い波を送ってくださいと。無神論者のある友人はわたしにこう書いてくれる。あなたに良い波を送ります、と。これは異教的な祈り方だが、親愛の情である。他者を愛することは、一つの祈りだ。」

10 3月 2023, 15:46