「わたしたちに命を再び与えられるイエス」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、3月26日(日)、バチカンでお告げの祈りの集いを持たれた。
祈りの前に、教皇はこの日の福音朗読箇所、ラザロの復活のエピソード(参照 ヨハネ福音書11,1-45)を取り上げ、説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
**********
四旬節第五主日、福音はラザロの復活のエピソード(参照 ヨハネ福音書11,1-45)をわたしたちに示す。復活祭を前に語られるこの奇跡は、イエスによってなされた様々な「しるし」の頂点とも言えるものである。
イエスの親しい友であるラザロは病気であった。イエスは彼が死にかけていると知りつつ、ラザロのもとへ歩み始めた。しかし、イエスが到着した時には、すべての希望も虚しく、ラザロは葬られてすでに四日もたっていた。
しかし、イエスの存在は、ラザロの姉妹マルタとマリアの心にわずかな信頼を再び灯した。(同11,22、11,27)。悲しみにくれながらも、姉妹たちはこの光にすがった。イエスは彼女たちに信じるようにと招き、墓を開けさせた。そして、御父に祈ったイエスは、ラザロに「出て来なさい」と叫ばれた(同11,43)。人々はラザロが生き返り、出て来るのを見た。
この奇跡のメッセージは明らかである。もはや希望はないと思われる時でも、イエスは命を与えられる。悲しい別れや、病気、ひどい失望、失敗、裏切りなどによって、希望を感じられない時がある。あるいは希望を失った人に会うことがある。「何をしても無駄だ」という言葉を聞く時がある。闇や、苦しみ、絶望の中で、墓に閉じ込められたように感じることがある。今日、イエスは、そうではない、わたしたちは一人ではないと言われる。むしろ、イエスはわたしたちに命を再び与えるために、これまで以上に近くにおられる。
イエスはラザロのために涙を流されたように、わたしたちと共に泣かれる。同時に、イエスは、ネガティブな感情に押しつぶされず、信じ、希望を持ち続けるようにと命じられる。そして、イエスはわたしたちの墓に近づき、ラザロの時のように、「その石をとりのけなさい」と言われるのである。
「その石をとりのけなさい」。苦しみ、過ち、失敗を、自分の中に、暗い閉じた孤独な部屋の中に隠さないようにと、イエスは言われる。「その石をとりのけなさい」。中にあるものをすべて外に出し、イエスの中に信頼をもって投げ出すように、と言われる。なぜなら、イエスはいつも共におられ、わたしたちを愛し、わたしたちが再び生きることを望んでいるからである。
ラザロに呼びかけたように、イエスはわたしたち一人ひとりに言われる。「出てきなさい。立ち上がり、再び歩き始めなさい。信頼を取り戻しなさい。あなたを包んでいた覆いをほどきなさい(参照 同11,45)。わたしはあなたが自由であること、生きることを望む。あなたを一人にはしない。苦しみに閉じ込められてはいけない。希望を失ってはならない。再び生きるのだ」と言われる。
復活祭を前に、ヨハネ福音書11章のこのエピソードを読もう。それは命の賛歌である。わたしたちも心に何かの重荷や苦しみを抱え、それに押しつぶされそうになっているかもしれない。ならば、今こそ、石をとりのけ、外に出て、イエスに会おう。イエスはわたしたちのそばにおられる。