教皇「命の水によって、自らが他者を回復させる泉となる」
教皇フランシスコは、3月12日(日)、バチカンでお告げの祈りの集いを持たれた。
祈りの前の説教で、教皇は、この日福音朗読された、イエスがサマリアの女と井戸のほとり交わした言葉(参照 ヨハネ福音書4,5-42)を観想された。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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この日曜日、福音はイエスの最も美しい出会いの一つ、サマリアの女との出会いを語っている(ヨハネ4,5-42)。イエスと弟子たちはサマリアの井戸のほとりで休んだ。そこに女が水をくみにやって来た。イエスは女に「水を飲ませてください」(同4,8)と言われた。「水を飲ませてください」というこのイエスの言葉について考えてみよう。
イエスはこの場面で、のどを渇かせた、疲れた姿をわたしたちに見せている。イエスは正午ごろという、最も暑い時間に、休み場所を乞う者のように、サマリアの井戸端に座っておられた。これはへりくだった神の姿である。イエスにおいて、神はわたしたちと同じようになられた。わたしたちと同じようにのどを渇かせ、激しい渇きに苦しんでいた。
この場面を見つめながら、わたしたちは、「主、師である方が、わたしに水を飲ませて欲しいと言っておられる。つまり、わたしと同じようにのどが渇くということだ。わたしと同じ渇きを持っておられる。主よ、あなたは本当にわたしのそばにいてくださる方。あなたはわたしの貧しさと結ばれ…わたしよりも低いところから、わたしを捉えられました…」(P.マッツォラーリ「サマリアの女」55-56)と、観想することができるだろう。
事実、イエスの渇きは、肉体的なものだけでなく、わたしたちの人生の最も深い渇きを表している。それは特に「わたしたちの愛に対する渇き」である。イエスは御受難の頂点にあって、十字架上で息を引き取る前に「渇く」(ヨハネ19,28)と言われた。
しかし、「水を飲ませてください」と頼むイエスは、同時に「水を飲ませる」方である。イエスは出会ったサマリアの女に聖霊の生きた水について話し、十字架上で槍で刺されたわき腹から水と血を流れさせた(参照 ヨハネ19,34)。愛に渇いたイエスは、わたしたちの愛の渇きをいやす方である。イエスは、サマリアの女にそうされたように、生活の中でわたしたちに会いに来られ、わたしたちの渇きを分かち合い、永遠の命に至る水がわたしたちの内にわき出るように約束してくださる(参照 ヨハネ4,14)。
「水を飲ませてください」。この言葉には別の意味もある。それは、サマリアの女だけにではなく、わたしたちにも毎日向けられる呼びかけ、時には沈黙の呼びかけである。それは他者の渇きの世話をするようにとわたしたちを招いている。家庭や職場、他の場所で、寄り添いや関心や傾聴に渇く人々が、「水を飲ませてください」とわたしたちに頼んでいる。「水を飲ませてください」という願いは、神の御言葉に渇く人、消費に走り無関心に満ちながらも内面に虚無を抱えた社会、生きるための水も得られない兄弟姉妹たち、汚染され破壊された「わたしたちが共に暮らす家」地球の叫びでもある。
これらの挑戦を前に、今日の福音はわたしたちに命の水を差し出しながら、その水によって、わたしたち自身が他者の元気を回復させる泉となるようにと招いている。ここで自問しよう。わたしは神に渇き、生きるための水のごとく、神の愛を必要としていることを自覚しているだろうか。また、わたしは他者の渇きを心にかけているだろうか。聖母の取り次ぎと、わたしたちの歩みにおける支えを祈ろう。