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教皇フランシスコ 2023年1月11日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2023年1月11日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「福音宣教の情熱、信者の使徒的熱意」を考える、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、1月11日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、1月11日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 この日、教皇は謁見中のカテケーシスで、「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意」をテーマとする新しい一連の考察を始められた。

 そして、その初回として、マタイ福音書9章のマタイの召し出しの場面を(9,9-13)観想しつつ、「使徒職への召し出し」について講話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 今日から新しいテーマの一連のカテケーシスを始めたい。それは、キリスト者の生活にとって急務の、かつ重要なテーマ、「福音宣教の情熱」すなわち「使徒的な熱意」をめぐるものである。

 「福音宣教の情熱」、それは教会のいのちとも言える側面である。イエスの弟子たちの共同体は、事実、使徒的、宣教的なものとして生まれた。聖霊によって教会の共同体は外へ向かうように形作られている。それは自分の中に閉じこもらず、イエスの証し人としてその光を地の果てまで輝かすよう努めるためである。

 しかし、使徒的な熱意、福音のよき知らせを人々に伝えたいという願いがすり減ることも起こり得る。時にそれは消えていくかのようにさえ思われる。しかし、キリスト者の生活が福音を告げ知らせるという視野を見失う時、その生活は、病み、自分の世界に閉じこもり、自己に関連したこと以外に興味がない、委縮したものになってしまう。使徒的な熱意なしでは、信仰は枯れてしまう。

 それに対し、宣教は、キリスト者を元気づけ、清める、キリスト教生活の酸素のようなものである。ここでは、「福音宣教の情熱」を再発見するために、「使徒的熱意」の源である聖書や教会の教えからくみ取りたい。そして、教会に福音の情熱の火を再び灯した人々の証しに学びたい。

 今日は初回として、マタイ福音書に語られる使徒マタイの召し出しのエピソード(参照 マタイ9,9-13)から始めよう。

 すべてはイエスから始まった。イエスは「マタイという人」が「収税所に座っている」(同9,9)のを見かけた。実際、マタイは徴税人であった。彼の仕事は当時パレスチナを支配していたローマ帝国のために税を徴収することであり、それは同胞たちからは、占領者側の協力者、裏切り者とみなされることであった。

 しかし、イエスの目には、マタイは一人の人間として映っている。マタイと人々の間には距離があるのに対し、イエスはマタイに近づいていく。すべての人は神から愛されているからである。すべての人を愛の対象として見る、このイエスの眼差しこそ、福音宣教の情熱の始まりといえよう。すべての始まりとなるこの眼差しを、イエスから学ぼう。

 わたしたちは他者をどのような眼差しで見つめているだろうか。いったい何度、人の欠点をあげつらい、人の行動や考えからレッテルを貼ってきたことだろうか。キリスト者でさえも、これは自分たち側の人か、自分たちには属さない人か、などと言ったりするが、それはイエスの眼差しではない。イエスはいつも一人ひとりをいつくしみと特別な愛で見つめておられる。

 キリスト者は、キリストのように、特に自分たちから「遠い人たち」を見つめるよう招かれている。それは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」(同9,13)という、マタイの召し出しのエピソードの終わりのイエスの言葉からも明らかである。

 すべてはイエスの眼差しから始まった。これに「動き」が続く。マタイは収税所の机に座っている。イエスはその彼に「わたしに従いなさい」と言われた。そして「彼は立ち上がってイエスに従った」(同9,9)。

 福音は「立ち上がって」という動きを強調している。なぜこの動作が大切なのか。それは当時、座っている者は、立っている他の者に対して権威、権力を持っていたからである。

 イエスが最初にしたことは、マタイを権力から引きはがすことであった。そして、イエスはマタイを兄弟たちと同じ立場に立たせ、奉仕の世界へと招いた。

 これは、キリスト者、すなわちイエスの弟子であるわたしたち、また教会にとって本質的な重要さを持っている。わたしたちは座って人々が来るのを待っているのだろうか。それとも立ち上がり、人々と共に歩き、あるいは他者を探しに行くことができるだろうか。

 眼差し、動き、そして、最後に「行先」がある。立ち上がり、イエスに従ったマタイはどこへ行っただろうか。人生が変わったマタイを、イエスはすぐに新しい出会いや、新しい霊的体験に導いていったようにわたしたちは想像するだろう。

 だが、少なくとも、すぐにはそうではなかった。最初にイエスが向かったのはマタイの家であった。マタイはそこで宴席を設け、そこには「徴税人も罪人も大勢やって来た」。マタイは自分の環境に戻った。しかし、それは生まれ変わった彼であり、しかも、イエスと一緒だった。マタイの使徒的熱意は、新しい、まっさらな、理想郷から始まったのではない。それは自分の生活の場で、普段から知っている人たちと共に始まった。

 これがわたしたちへのメッセージである。自分が完全になるのを待っていてはいけない、イエスの後ろを長い間歩いたという経験を待っていてもいけない。わたしたちの宣教は今、自分がいる場所から始まるのである。

 そして、それは他者を説得することから始まるのではなく、わたしたちを見つめ、立ち上がらせてくださった神の愛の素晴らしさを毎日証しすることから始まる。それは、名誉教皇ベネディクト16世が教えてくださったとおりである。「教会は改宗主義をとることはありません。むしろ、それは魅力によって発展するのです」(ラテンアメリカおよびカリブ司教協議会第5回総会 開会ミサ説教 2007年5月13日)。

 この魅力と喜びにあふれた証しこそが、イエスが、その愛の「眼差し」と聖霊が促す「動き」をもってわたしたちを導く目的地なのである。

11 1月 2023, 13:55