「待降節を恵みの時として生きよう」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、12月4日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。
待降節第二主日、教皇は祈りの前の説教で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と荒れ野で述べ伝える洗礼者ヨハネの姿(マタイ3,1-12)を観想された。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
**********
待降節第二主日、この日の典礼の福音は、洗礼者ヨハネの姿をわたしたちに示している。洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着」、「いなごと野蜜を食べ物とし」、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3,2)とすべての人に回心を呼びかけていた。
厳格さと激しさを持つ洗礼者ヨハネの姿は、一見恐れさえ引き起こすかもしれない。では、なぜ教会は毎年待降節の歩みにおいて、彼の存在を提示するのだろうか。洗礼者ヨハネの見た目の厳しさの裏には何があるのだろうか。
洗礼者ヨハネは、厳格である以上に、人の二面性に対して非常に過敏であった。たとえば、自分に近づいてくるファリサイ派やサドカイ派の人々の偽善に対し、彼は強い「アレルギー反応」を示した。なぜなら彼らは、人々の間で知られたヨハネに好奇心やご都合主義で近寄りながらも、ヨハネの回心を促す呼びかけに対しては、「我々の父はアブラハムだ」(マタイ3,9)と、自己を正当化し、自分たちの落ち度のなさを信じていたかあである。
ファリサイ派やサドカイ派の人々は、こうした二面性と高慢によって、新しい人生を始めるための恵みの機会を捉えられないでいた。それゆえに、ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」と彼らに言ったのは、父から子に対するような、愛による叫びだったのである。
実際、聖なるものを台無しにしてしまうという意味で、偽善は最も危険なものである。そのために、洗礼者ヨハネは、後にイエスもそうであったように、偽善者に対して厳しかった。一方で、自らを罪びとと考え「ヨハネのもとに来て、罪を告白し」た人々は「彼から洗礼を受けた」(参照 同3,5-6)。神を受け入れるために重要なのは、有能さではなく、謙遜さである。必要なのは、自分を持ち上げていた台から降りて、悔い改めの水に身を沈めることである。
わたしたちも時にはファリサイ派の人々のようではないだろうか。他者を見下し、優越感にひたり、人生を手中にしているとの思いから、神や教会や兄弟たちの必要を感じないことはないだろうか。
待降節は、わたしたちの仮面をはがし、謙遜な人々と共に列につくための恵みの時である。自分だけでやっていけるといううぬぼれから解放され、罪を告白し、神の赦しを受け入れ、傷つけた人にゆるしを乞うための機会である。こうしてわたしたちは新しい人生を始めることができるだろう。
謙遜の道、これこそが、優越感や、形式主義、偽善をぬぐい去り、他者の中に兄弟姉妹、自分と同じ罪びとを見出し、イエスの中に救い主を認めるための唯一の道である。イエスは、貧しさ、みじめさ、欠点、そして何よりも再起し、ゆるされ、救われたいという願いを持った、ありのままのわたしたちのもとに来てくださる。
イエスと共にわたしたちはいつでも再出発することができる。イエスは疲れを知ることなくわたしたちを待っておられる。神の御許に帰るようにとの、洗礼者ヨハネの愛の叫びを自分に向けられたものとして聞き、待降節を恵みの時として生きよう。主の謙遜なはしためマリアが、謙遜の道を行くわたしたちの神と兄弟たちとの出会いを助けてくださいますように。