諸聖人の祭日:教皇「平和を実現する人となるためには」
カトリック教会の典礼暦は、11月1日(火)、「諸聖人」の祭日を祝った。
教皇フランシスコは、同日正午、バチカンの広場に集った巡礼者らと共にお告げの祈りを唱えられた。
祈りに先立ち、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書5章、「山上の説教」の冒頭でイエスが説く「8つの幸い(真福八端)」(マタイ5,1-12a)を取り上げ、次のような要旨の説教を行われた。
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今日は諸聖人を祝うが、わたしたちは聖人と聞くと完璧で几帳面な人生を送った人々を思い浮かべるかもしれない。しかし、今日の福音は聖人に対するこうしたステレオタイプの見方をくつがえすものである。実際、イエスが説く「真福八端」は、聖人たちの身分証明とも言えるものであり、それはわれわれが想像するステレオタイプとは反対の、潮流に逆らう、革命的な人生を示すものである。
たとえば、今日の状況にも即した、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5,9)という教えを取り上げてみよう。皆が平和を望んでいる。しかし、わたしたちがよく望むのは「平和に過ごす」こと、すなわち問題なく平穏でいることである。それに対して、イエスは平和に過ごしている人々を幸いとは呼ばない。イエスが幸いと呼ぶのは、平和の実現のために努力し働く人々である。実際、平和とは築くものであり、それはすべての構築と同様、努力や、協力、忍耐を必要とする。
われわれは平和が空から降ってくればと思うが、一方、聖書は地上やわれわれの心に芽を出し、日々静かに育つ「平和の種」(ゼカリヤ8,12)について語っている。それは今日祝う諸聖人たちの輝かしい証しに見るように、正義やいつくしみの業を通して育つのである。
また、わたしたちは平和が力や権力によってもたらされると考えがちである。しかし、イエスにとって、それは正反対であった。イエスと諸聖人の生き方は、平和の種が育ち実を結ぶには、まず地に落ちて死なねばならないと教えている。平和は誰かを征服したり、打ち負かすことで得るものではない。平和は決して暴力的ではなく、武装したものではない。
では、どうしたら平和を実現する人になれるだろうか。それはまず、心の武装を解くことである。わたしたちは皆、攻撃的な考えや、傷つける言葉で装備を整え、嘆きの鉄条網や無関心の壁で防御することを考えている。平和の種は心の武装解除を求めている。
わたしたちの平和であるイエスに心を開き、平和の学び舎であるその十字架の前にたたずみ、告解においてイエスから「赦しと平和」を受け取ろう。平和の実現はここから始まる。なぜなら、平和を実現する人、聖人になるのは、わたしたちの能力ではなく、イエスの賜物、恵みによるからである。
自問しよう。自分は平和を築く人と言えるだろうか。生活の場、勉強や仕事の場に、緊張関係や傷つける言葉をもたらしてはいないか。それとも、自分を傷つけた人を赦し、疎外された人をいたわり、貧しい人を助け、不正義を少しでもなくす努力をしながら、平和の道を開いているだろうか。
「真福八端」の教えに対し、最後の疑問がわいてくるかもしれない。このように生きることは得になるのか。こういう人々は敗者ではないのか。イエスはこれに答えている。平和を実現する人々は、「神の子と呼ばれる」(マタイ5,9)と。
毎日の生活の中で平和を実現する人となれるよう、諸聖人たちの女王、おとめマリアがわたしたちを助けてくださいますように。