「神は、誰一人失うことを望まれない」教皇、日曜正午の祈り
教皇フランシスコは、9月11日(日)、「お告げの祈り」をバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。
祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、ルカ福音書中の神のいつくしみを表す3つのたとえ(ルカ15,1-32)を取り上げられた。
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今日の福音は、神のいつくしみ深い御心を示すための3つのたとえを語っている。イエスはこれらのたとえをもって、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言うファリサイ派の人々や律法学者たちに答えたのである。
イエスは罪人たちを迎え、食事を共にすることで、すべての人を子として愛し、誰一人除外しない神を啓示しておられた。
イエスが語った3つのたとえは、父なる神は、わたしたちが道を見失うたびに探しに来られる方である、という福音の中心的メッセージを要約するものであった。実際、これら3つのたとえの主人公、見失った羊を探し回る羊飼いと、失くした一枚の銀貨を再び見つけた女、そして放蕩息子の父親は、神を表している。
この3つのたとえのそれぞれの主人公の共通点を考えてみよう。それは「欠けているための不安」と言ってもよいだろう。そこでは、羊が一匹足りなかったり、銀貨一枚が無かったり、息子がいなかったりし、そのことのために主人公たちは落ち着かない気持ちでいる。
これらの主人公たちは、よく計算すればもっと平気でいられたかもしれない。羊一匹いなくとも他に99匹いるし、銀貨一枚無くしてもあと9枚残っているし、放蕩息子がいなくてもよく仕えてくれる従順なもう一人の息子がいるからである。
しかし、彼らの心は、欠けている一匹、一枚、一人の息子のために落ち着かなかった。愛する人は、そこにいない人のことを心配する。欠けている人を懐かしみ、見失った人を探し、遠ざかった人を待つ。神は、誰一人失うことを望まれない。
神は、わたしたちが遠ざかると、落ち着いてはいられない。悲しみ、心を震わせ、その御腕に連れ戻すために、わたしたちを探し始める。神は父親、母親の心を持って、愛する子が欠けていることを苦しむ。神はわたしたちが離れていることを苦にし、その帰りを待っておられる。神は、わたしたちがどのような状況で道を見失っても、いつでも両腕を広げ待っておられることを忘れてはならない。
では、ここで自問しよう。わたしたちは主に倣う者として、そこに欠けている人を心配するだろうか。そこにいない人、キリスト教生活から遠ざかった人のことを気にかけないだろうか。こうした気がかりを心に抱いているだろうか、それとも自分たちだけで平気でいるだろうか。共同体の中に欠けている人、離れた人に憐れみを抱かず、自分たちのグループの中で満足しているのだろうか。
御父は、そこにいない御自身の子らに気付いて欲しいとわたしたちに願っておられる。わたしたちの身近な人で、「あなたは神にとって大切な人ですよ」という言葉をおそらく聞いたことがないであろう人を思い浮かべてみよう。その人は「でも、わたしには問題があって、実はあれこれひどいことをしたのです」と言うかもしれない。そこで、その人に言おう。「神様にとってあなたは大切な存在です。あなたは探さなくても、神様はあなたを探していますよ」と。
このような問いに心を動かされるがままに、聖母に祈ろう。聖母は、疲れを知らずわたしたちを探し、子であるわたしたちの世話をしてくださる御母である。