「識別」をテーマとする考察を開始、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、8月31日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシスで、教皇はこの日から新たに「識別」をテーマとする一連の考察を開始された。そして、そのシリーズの初回として、「識別とは何か」を考えられた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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(イエスは言われた)「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。[…] また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」。(マタイ13,44、47-48)
今日から「識別」をテーマとする新しいシリーズのカテケーシスを始めよう。識別とは皆にとって大切な行為である、なぜなら選択は人生の本質の一部だからである。食べ物や着る物、学業のコース、仕事、人間関係など、これらの選択が人生計画や神との関係をも具体化するのである。
福音書において、イエスは、魚を選り分ける漁師たち、多くの真珠の中から高価な真珠を見分ける商人、畑を耕していて宝を見つける人などの、日常的イメージを用いながら、識別について説明している(参照 マタイ13,44-48)。
これらのたとえに照らして見る時、識別は機会をつかみ、良い選択をするための、「知性」や「熟練」「意志」等として表現されている。
また、識別には努力が必要である。良い仕事をするために漁師は夜通し働き、さらに苦労して獲ったものの一部は捨てなくてはならない。畑で宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買っている。
福音は識別の上で重要なもう一つの側面を示している。それは感情を伴う。畑で宝を見つけた人は、すべてを売り払うことを厭わない。その喜びが大きいからである。その特別な喜びは神との出会いだけが与えることのできるものである。それは、東方三博士が長く険しい旅の末に東方で見た星を再び見出した時の喜びであり(参照 マタイ2,10)、天使からイエスの復活の知らせを聞き墓から立ち去った時の婦人たちの喜びである(参照 同28,8)。それは主を見出した人の喜びなのである。
最後の審判で、神はわたしたちを調べ識別されるだろう。神の御国は日常生活の行いの中に現れ、わたしたちはその行いにおいて立場をはっきりさせることを求められている。それゆえに、識別を知ることは重要である。
重大な選択は時に最初の出会いで生まれることがある。アンデレやヨハネがイエスと出会った時のことを考えてみよう。その出会いは単純な問答から生まれた。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」「来なさい、そうすれば分かる」(参照 ヨハネ1,38-39)。それは短い会話だったが、一生を変えるものだった。
知識、経験、感情、意志、これらは識別に欠かせない要素であるが、その他の重要な事項についてもこれからのカテケーシスで扱っていこう。
先ほど述べたように、識別とは努力を要する。神はわたしたちに判断と選択を委ねられる。神はわたしたちを自由な者として創造され、わたしたちがその自由を生きることを望まれる。それゆえに、識別には労力が求められる。
人は過ちを犯すことがあり、正しい選択ができないこともある。そのことを聖書は最初の部分ですでに語っている。もし生きて、いのちを味わいたいならば、自分は被造物であり、善悪の基準は自分にはないこと、そしてその選択が自分や他者、そして世界に影響をもたらすことを思い出すよう、神は人にはっきりと伝えられた(参照 創世記2,16-17)。それは本質的な教えだった。これが神と人との最初の対話だったことは偶然ではない。
識別には苦労を伴うが、生きるために不可欠なものである。それは自分を知ることはもとより、特に神に対する子としての関係を必要とする。神はわたしたちを独りにはせず、常に助言し、励まし、受け入れる用意を持っておられる。しかし、ご自分の意志を押し付けることは決してない。なぜなら、神は恐れられることより、愛されることを望まれるからである。愛は自由においてのみ生きることができる。
生きることを学ぶためには、愛することを学ぶ必要がある。そのためにも識別は必要である。毎日、特に選択が必要な時、聖霊がわたしたちを導いてくださるよう祈ろう。