教皇「善きサマリア人のように見ること、憐むことを学ぼう」
教皇フランシスコは、7月10日(日)、バチカンで「お告げの祈り」を広場の巡礼者と共に唱えられた。
祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、ルカ福音書中の「善きサマリア人」のたとえ(ルカ10,25-37)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音では「善きサマリア人」のたとえが語られる。場面はエルサレムからエリコへ下って行く道である。その途中に追いはぎに襲われ、瀕死の状態で倒れている人がいた。
ある祭司が通りかかったが、 その人を見ても立ち止まることなく、通り過ぎて行った。次にレビ人、すなわち神殿の祭礼に関わる者もやって来たが、同じように通り過ぎて行った。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、 その人を見て憐れに思った」(参照 ルカ10,33)。
福音記者ルカは、このサマリア人は「旅をしていた」と具体的に記している。このサマリア人は、遠い目的地へ行くための自分の計画があったにもかかわらず、道端で起きていることに無関心ではなかった。
初期のキリスト教徒たちが「道に従う者」(参照 使徒言行録9,2)と呼ばれたのは意味深いことである。信者たちは実際このサマリア人に似ている。キリスト者は、彼のように旅の途上にある者、つまり旅人である。「すでに到達した者」ではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14,6)と説くイエスに従い、日々学びながら歩む者である。主の「道に従う者」は、常に歩み、旅の中で、人と出会い、病者をいやし、村や町をめぐる。
主の道に従う弟子は、その考え方や行動の仕方が次第に師のそれと似てくることに気づく。キリストの後を歩むことで、自分も旅人となり、このサマリア人のように、見ること、憐れむことを学ぶ。
主の道に従うことで、まず、見ることを学ぶ。現実に目を開き、自分の考えに閉じこもって目をつぶらないことを学ぶ。一方、祭司とレビ人は、災難にあったこの人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまった。福音は見ることを教え、先入観や教条主義を乗り越え、正しく現実を理解するように、わたしたち一人ひとりを導く。
また、イエスに従うことは、憐れみを持つこと、他者、特に苦しむ人や助けを必要とする人を受け入れることを教える。そして、このサマリア人のように行動することを教えてくれる。
この福音を前に、他者を祭司やレビ人にたとえて非難することも、あるいは隣人に対する関心の欠如を自覚し、自ら反省することもあるだろう。確かに自分の無関心さを認めることは重要であるが、そこで終わってはいけない。利己主義的な無関心から抜け出し、「道」に立ち返ることを主に願おう。歩みの途上で出会う人々、特に苦しむ人、助けを必要とする人を「見て」、「憐れみを持ち」、彼らに近づき、できるかぎりの助けを与えられるよう、主に祈ろう。
おとめマリアがわたしたちのこの成長の道のりを見守ってくださいますように。聖母が「道」であるイエスを示し、わたしたちがいっそう「道に従う者」となれるよう、助けてくださいますように。