新聖人たちの生涯(その1)
聖ティトゥス・ブランズマ
(1881- 1942)
聖ティトゥス・ブランズマ神父は、1881年2月23日、オランダ・ボルスワルドの裕福な農家で誕生。洗礼名はアンノ・シュールトと呼ばれた。
1892年から1898年まで、アンノ・シュールトは中学校に通い、その間、次第に修道者になりたいとの希望が芽生え始めた。最初フランシスコ会修道院を希望したが、健康上の理由から入会を断られ、その後カルメル会(履足)に入会した。
1898年9月22日、修練期を開始し、父親の名前を取ってフラ・ティトゥスと名のることとなった。1899年10月3日、修練期を終了、修道誓願を宣立し、その後、1900年から1905年にかけて哲学と神学の勉強にいそしむ。
その間、1901年には、カルメル会の改革者イエスの聖テレサに関する本をフランス語から翻訳し、出版する。
24歳で司祭に叙階される。その後、ローマに派遣され、グレゴリアン大学哲学部に通い、同時に社会学をも研究する。その間にも、いくつかのオランダの出版社や新聞社とも協力し、執筆活動を開始する。
カルメル会修学院で哲学と数学を教授し、1912年には、「カルメルのバラ」と題する小冊子の刊行に携わる。また、1918年には、イエスの聖テレサに関する数冊の本の出版を開始する。
1923年には、ナイメーヘンに新しく創立されたカトリック大学の哲学と霊性史の教授となる。
1932年、同大学の学長に選ばれ、その際、後に有名となる「神の概念」についての講演を行う。
1935年、ユトレヒトの大司教から、カトリックジャーナリスト協会の責任者に任命され、その際、正式に国際ジャーナリストとしての資格を受ける。
ティトゥス神父は柔和で、人の話によく耳を傾け、助けを必要とする人々に常に開かれていた。
1938年から1939年にかけて、きわめて危険だと承知しながらも、非人間的なナチス主義国家に対する批判的な講義を大学内で行っている。
戦火が激しくなり、1940年5月10日には、ヒトラーの軍がオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、およびフランスに侵入。オランダのカトリック教会は力強くナチス政権に反対し、ティトゥス神父も多くの講演や書き物を通しナチスの非人間性を弾劾し、ユダヤ人擁護の立場を表明。オランダ中を駆け巡り、新聞社や出版社にナチス政権に屈することのないよう、オランダ司教協議会のメッセージを伝達し続けた。
1942年1月20日、ナイメーヘンに戻り、大学で最後の講義をした後、修道院に帰ったティトゥス神父は、ナチスにより逮捕され、様々な収容所に移送されたあげく、最後にドイツ・ダッハウの強制収容所に送られた。過酷な条件での労働、度重なる厳しい尋問などにより完全に健康を害したティトゥス神父は、病室に送られるも、十分な治療を受けることなく、一本の注射によって殺害された。
誰にでもキリスト教的愛を実践していたティトゥス神父は、最後の英雄的愛の証しとして、ナチスに感化された看護婦に自分のロザリオを贈った。後にこの看護婦は回心し、ティトゥス神父の英雄的な最期の時を語る貴重な証人となった。
聖ラザロ・デヴァサハヤム・ピライ
(1712-1752)
聖ラザロ・デヴァサハヤム・ピライは、インド南部にあったヒンズー王朝、トラヴァンコール王国に、1712年、生まれた。家族は典型的なヒンズー教徒の一家であった。
ニラカンダン、またニラムとも呼ばれていた彼は知性と才能に恵まれ、王宮付きの士官から、やがて大臣となった。彼はヒンズー教の神々への信心を忠実に守り行っていた。
1741年、オランダ・トラヴァンコール戦争が起きた。大臣ニラカンダンは、この戦争で捕虜となりその後同王国の軍事近代化の顧問となった一人カトリックのオランダ人指揮官デ・ランノイと友人になった。
ニラカンダンの家族に不幸が続き、その苦しみをデ・ランノイと分かち合ううち、デ・ランノイは「ヨブ記」のストーリーを語って聞かせた。ニラカンダンは次第にキリスト教に惹かれ、洗礼を受けたいとの思いを強めた。
トラヴァンコールの王はキリスト教への改宗を禁じ、キリスト教徒を迫害していた。そのためデ・ランノイはニラカンダンの受洗の望みを助けることをためらったが、彼の熱意に負け、トラヴァンコール王国の外で宣教していたイエズス会士ジョヴァンニ・バッティスタ・ブッタリ神父の下にニラカンダンを送った。
1745年、ブッタリ神父はニラカンダンに、ラザロという新しい名前と共に洗礼を授けた。ラザロの喜びは大きく、すぐにイエス・キリストの福音を広め始めた。彼の妻も受洗し、テレザという洗礼名を受けた。
しかし、大臣のキリスト教への改宗はヒンズー国家への裏切り・危険と考えられた。1749年、ラザロは讒言によって逮捕された。王はキリスト教信仰を棄てるよう、手を尽くして説得したが、ラザロは棄教を拒んだ。
ラザロは公の場であらゆる残酷な拷問を受けたが、いかなる苦しみの中でも彼のキリスト教信仰は揺らがなかった。そのうちに、多くの人々が彼のもとを訪れ、彼の祈りと祝福を望むようになった。ついには兵士たちまでもがラザロに親切になり、彼を逃すことまで考えるようになった。
この新たな状況を知った王は、それ以上のキリスト教改宗者が出ることを恐れ、ラザロを辺境の隠された刑務所に送った。そして、1752年1月14日、ラザロは王の命令によって殺害された。兵士らは彼を森に遺棄したが、ラザロの殉教を知ったキリスト教徒たちが遺体を見つけ、今日のタミルナードゥ州コターのカテドラル、聖フランシスコ・ザビエル教会に葬った。
聖セザール・ドゥ・ビュス
(1544-1607)
聖セザール・ドゥ・ビュスは、1544年2月3日、フランス・プロヴァンス地方カヴァイヨンの非常に敬虔な貴族の家庭に生まれた。
若くして霊性と慈愛の心に恵まれ、20歳になる前から地域の信心会の責任者に選ばれた。「宗教戦争」が吹き荒れる中に出征、その間も貧しい人や負傷者たちを気遣った。病気になり家に戻った後、フランスの宮廷に士官として仕えるも、浮ついた生活に嫌気がさし、再び故郷に帰り、詩作や、作曲、演劇などに情熱を見出していた。
1575年、回心の恵みを得て彼の生活は変わった。 信仰を新たにし、当時、遊撃戦や飢餓や疫病に疲弊していた人々のために自らを与える決意をした。一人のイエズス会士の霊的指導のもと、アヴィニョンのイエズス会の神学校に入り、1582年、カヴァイヨンで司祭に叙階された。
彼の使徒職の歩みを照らしたものは、特にトレント公会議と、聖カルロ・ボロメオの霊性と使徒的事業であった。
当時のカトリックの刷新運動の中で、セザール神父は信者たちの宗教教育と聖なる生活への指導に力を入れ、その活動ために司祭と修道女の会をそれぞれ創立した。
1583年、教皇グレゴリウス13世の指針に従い、彼にとって最初の信徒の会を創設。その頃、聖カルロ・ボロメオの霊的生活、地域の教会会議、小教区での要理学校の推進などを知り、大きな刺激を受けた。子どもたちや貧しい人々のための要理教育に着手すると共に、要理を教えるために田舎の農場に派遣する若い女性たちのグループを作った。
1586年から88年にかけて隠遁生活をし、祈りとトレント公会議のカテキズムの研究に打ち込んだ。そこから教理の使徒職への召命を感じている何人かの司祭たちを組織化する計画が生まれ、キリスト教教理司祭会が誕生することとなった。1597年、同会は聖座の認可を得た。彼は総長を努めたが、心身の健康の悪化のために、ほどなく後任にそれを譲った。
彼は視力を失っても説教や告解師の奉仕を続け、「目が見えなくなってから神がわたしに見せてくださったものに比べたら、これまで見たり読んだものなど何でもない」と語っていた。
セザール神父は死の数日前に「この復活祭はわたしにとって、主の過越と、わたし自身が主の御許に移るためとの、二重の意味を持ったものになるだろう」と言ったとおり、1607年4月15日、復活祭の朝にアヴィニョンで帰天した。
聖ルイジ・マリア・パラッツォーロ
(1827-1886)
聖ルイジ・マリア・パラッツォーロは、1827年12月10日、イタリア・ベルガモに生まれた。幼くして父を失い、母と聖なる司祭たちに教育された。子どもの頃から、毎週、家の使用人と共に貧しい病人たちを見舞っていた。
1844年より神学校に外から通い、1850年6月23日、司祭に叙階された。
地元の最も貧しい小教区のオラトリオで若者たちのために尽くし、そこで、労働者や、貧しい農民、読み書きのできない人々のための夜間学校を開いた。
また、彼は当時ベルガモの貴族パッシ兄弟が推進していた、若い女性のための教育事業、聖ドロテア学校の成長を歓迎し、見守っていた。彼は少女たちのオラトリオとして、自分が所有する小さな家を提供し、それに聖ドロテアの名を冠した。そして、そこに常駐して少女たちに奉仕する人を探していたところ、聖ドロテア学校の教師テレザ・ガブリエリが適任と思われた。テレザは長い熟考と祈りの後、1869年5月22日、清貧・貞潔・従順の誓願を立て、その夜に一人の障害を持った孤児の少女を「新しい家」に引き取った。
まもなくして、テレザの後に他の女性たちが続いた。
パラッツォーロ神父は、聖家族兄弟会をも創立、男児の孤児の世話を託した。
晩年、多くの病苦や心労を人々の救いのために捧げたパラッツォーロ神父は、1886年6月15日、58歳で魂を天に返した。
パラッツォーロ神父が創立した聖家族兄弟会は1922年に閉じたが、貧しき者の修道女会は、北イタリアで成長し、今日はコンゴ、コートジボワール、マラウイ、ブルキナファソ、ケニア、ブラジル、ペルーまで広がっている。
聖ジュスティーノ・マリア・ルッソリッロ
(1891-1955)
聖ジュスティーノ・マリア・ルッソリッロは、1891年1月18日、イタリア・ナポリに生まれた。特に小学校の教諭である二人の叔母の教育により、早くから勉強と祈りに傾倒した。5歳で初聖体を許可された少年ジュスティーノは、すぐにイエスに深く心を捉えられた。10歳で神学校に入り、優れた霊的指導者たちの間で、その恵まれた素質を伸ばした。
1913年9月20日にポッツォーリのカテドラルで司祭の叙階を受けた。叙階式で会衆が唱える諸聖人の連祷に心を合わせ、地に伏して祈る中、「信仰、司祭職、聖性へと招く神の召命に奉仕する使徒職」のための修道会をつくるという誓いを立てた。
早くも半年後、父親の家で何人かの少年たちと共同生活を始め、教区司祭の召命の識別のための学校をスタートさせたが、司教による中止の勧告に忠実に従った。
第一次世界大戦が勃発、1915年、イタリアの参戦により、ジュスティーノ神父も召集され、病院に配置された。軍隊生活の中で、彼は負傷兵を熱心に看護する修道女たちを目にし、召命に奉仕する女子修道会の構想を得た。
大戦後、ジュスティーノ神父はナポリに戻り、1920年、ピアヌーラの小教区の主任司祭となった。ポッツォーリの教区管理者パスクアーレ・ラゴスタ師からの励ましで、召命に奉仕する活動を再開。1920年、有望な若者たち、特に貧しい青少年が司祭への召命に応えることができるよう助ける「神の召命会」を、1921年には「召命の母」としてこれらの活動を支える「神の召命修道女会」を相次いで創立した。
また、ジュスティーノ神父はその他の若者たちを普通の生活の中から召命に奉仕するよう指導し、1977年に認可された「普遍の聖化の召命会」の基礎を作った。
聖性、三位一体の神との一致、秘跡と司祭の必要について、多くの教えを残し、苦難の中にも神への忠実と聖母への信頼の中に留まり、会員らを導き、1955年8月2日、ピアヌーラで帰天した。
ジュスティーノ神父が創立した3つの会の会員は、今日、世界18か国で奉仕している。