「ヨブ記」:弱さや喪失の中で増す信仰の証し、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、5月18日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「老年の意味と価値」をめぐるカテケーシスで、旧約聖書「ヨブ記 」(42,1-6.12.16)を取り上げ、 「ヨブ、信仰の試練、待望の祝福」をテーマに話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「ヨブ記」は普遍的文学の頂点とも言えるものである。わたしたちはヨブに信仰の証し人としての姿を見る。ヨブは「単純化」された神のイメージを拒み、神が彼に答え、御顔を表すまで、悪に対する抗議の叫びを上げ続けた。そして、最後に神はヨブに答えられた。ヨブ記をよく読み、彼の叫びに耳を傾けることで、焦燥を前に単純な教訓論に陥る誘惑、すべてを失った苦しみのために落胆する危険に打ち勝つことができるだろう。
「ヨブ記」の終盤、神がついに答えられた時、ヨブは「沈黙の裏に隠された神の優しさの神秘」を理解したことで祝福を受けた。一方、神や苦しみについてすべてを知っているかのような態度でヨブを慰めに来た友人たちは、神から叱られた。わたしたちもこのような偽善的で高慢な敬虔を装った態度に陥らないように祈ろう。
神はヨブの友人たちにこう言われた。「わたしは[…]怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。[…]わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。[…]お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう」(ヨブ記42,7-8)。ヨブが神に激しく抗議するのを見た後で、神のこの言葉は驚くべきものである。ヨブの抗議にも関わらず、ヨブが神を「迫害者」であると認めなかったことで、神はヨブの財産を二倍にされた。
ヨブの「信仰の回心」はまさに彼の苦しみの叫びの中で訪れた。ヨブは言う。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(同19,25-27)。これはこのように解釈できるだろう。「わたしの神よ、あなたが迫害者ではないことを知っています。わたしの神はおいでになり、正義を行ってくださるだろう」。
「ヨブ記」は、人生の中で実際に起こりうることを劇的な語り口で表現している。個人や、家族、民族を、人間の小ささと弱さに比例して耐えがたい試練が襲うことがある。人生には「泣きっ面に蜂」のように災難が重なることがある。数々の災難に巻き込まれた人々を見て、それをあまりにも過酷で不当だと思う時がある。
わたしたちはこうした人々の叫びに心を打たれると同時に、彼らの信仰と愛の強さに感嘆することがある。このような重い試練に見舞われる究極の状況は歴史の中でも起こり得る。たとえば今日のパンデミック危機や、ウクライナで起きている戦争がそれである。
自然の中や歴史上に起きるこれらの理解を超える過酷な出来事を、わたしたちはどう捉えたらよいのだろうか。それは犠牲者のせいだと言えるだろうか。そうではない。悪の神秘に対し、犠牲者には抗議するある種の権利、神が誰にでも与える権利が存在する。神がヨブに抗議させるがままにしたように、悲劇の初めにある「神の沈黙」の意味はそこにある。おそらく、わたしたちはこの神の尊重と優しさから学ばなければならない。
ヨブの信仰告白は、まさに、至上の正義である神へのこの絶え間ない訴えの中から芽生えた。そして、ヨブはこの神秘的とも言える体験によって「あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(同42,5)と言うまでに至った。この証しは、高齢によって背負うものがその弱さや喪失の中で増す時に、より信じ得るものとなる。
喪失の怒りを神の約束への辛抱強い希望へと転換する、この証しの道を見つけることのできる高齢者たちは、過剰な悪に立ち向かう共同体にとって、かけがえのない砦である。キリストの十字架と向き合う信者の眼差しは、まさにこのことを学んでいる。マリアのように、十字架上で御父に自らをあまねく捧げたイエスに祈る、多くの祖父母とお年寄りたちから、わたしたちも学ぶことができますように。